2017年04月13日

共感の向こうの光

フィギュアスケート選手の浅田真央選手が引退表明をした。
凄いなぁと思うのは、引退発表がテレビ速報で流れた瞬間だった。
国民的スターだったんだなぁと、つくづく思った。
子供のころから知っているから、というのもあるけれど。
ここまで、愛されるというのは、やはり才能だし、それは、フィギュアの技術だけで説明できるものではない。
生き方そのものを、皆が共有していたからだと思う。
何度となく逆境が訪れた選手生活をどうしても思い出してしまう。
そのたびごとの、彼女の戦い方こそ、愛された原因じゃないかと思う。

おいらは、Hiphopの素養がないし、いまいち、わからない。
間違いなく、おいらと同世代が始めた音楽活動の一環なのだけれど。
自分の体に落ちてこなかった。
ただ、最近のフリースタイルの番組を見て、興味が出てきていた。
それは、そのLIVEや、戦っている場所が、意外に自分のやってきたことと近いと感じることがあったからだ。
ああ、なんか、同じような部分で、苦しんだり、こだわったりしてるんだなぁなんて、感じていた。
そのHiphop用語で、わからない言葉が、何度も出てくる。
パンチラインだの、フロウだの、ライムだの、普段使わない言葉は、どうしても響いてこない。
彼らにとっては、日常的に使われている言葉で、更に、誰でも知っている言葉にまで発展させたいだろうと思う。
その中で、「レペゼン」という言葉があって、これは、一体、何を言ってるんだろう?と気にしていた。

ご存知の通り、おいらの場合、とにかく、知らなくちゃだめだなと、先に思ってしまう。
まず知って、そのあとで、記憶にとどめるのかどうかは別の話だけど。
だから、案の定、レペゼンって、どんな意味なのか調べてしまった。
これは、「代表して・・」とか、「代表する・・・」とか、そういう意味だと知った。
まぁ、それだけだと、ちょっとなんか軽すぎるし、「代表」って言えばいい。
あえて「レペゼン」って言うという事は、代表というニュアンスだけではズレるのだと思う。

いわゆる集団の代表とはどうやら、ちょっとニュアンスが違った。
例えば、レペゼン川崎!と言ったら、川崎代表!って意味ではない。
川崎に住む、自分の周りの、自分の生活圏の、悪ガキたちを背負っているんだ。
そういうニュアンスが、どうやら、レペゼンには入っている。
今、活躍している彼らには、バックボーンがあって、そのバックボーンをさらけ出しながら、RAPをしている。
中には犯罪歴や、家族、民族的なルーツまで、全て叩き込む。
そういう中で、勝手に俺は代表して言うぜ!ということにはならない。
シンプルに「代表して・・・」と説明してしまうと、口にしてしまうと、どうしてもニュアンスが変わるとはそういう事だ。

確かに、自分の十代の頃を思い出したり、自分が憧れた人を思うと、とても腑に落ちた。
彼らは、自分のことを表現しながら、同時に、リスナーにとっての代表を演じてくれていた。
普通に生きる人が言いづらいようなことまで、堂々と口にしてくれた。
文化人のような頭から出る言葉ではなく、生活から出てくる生々しい言葉をそこで発していた。
自分であると同時に、アイコンになっていた。
カリスマと言う言い方をしたりもしたけれど、もっと、なんというか近い。
身近に感じる、共感。

詩人の吉本隆明さんが、名作とは、「誰もが俺にしかわからないと思ってしまう作品」と書いていたのを、思い出す。
共感を生む表現と言うのは間違いなくあって、そこにしか名作は生まれないのだろう。
いつの間にか、自分を投影してしまうような表現は、いつの間にか自分の物語に変容するからだ。

浅田真央選手は、その精神的な強さに憧れながら。
同時に、皆が、自分だったらどうするだろう?なんて考えさせる部分があった。
お母さんの不幸、成長とともに変わる体格の変化、怪我との戦い。
そのたびごとに、彼女は、強く選択してきた。
その姿を見て、自分なら、こんな選択できたかな?と、何度も考えさせられた。

彼女は別に、レペゼンじゃない。
日本代表だけれどね。
けれど、その姿勢は、うちの母親さえ「ちゃん」づけで呼ぶような身近な存在であり続けた。
いわゆる、アスリートというだけの存在ではなかった。
日本全国民的に共感を繰り返していた。

役者や、物語の世界に生きている。
だから、まったく関係がなさそうだけれど。
どうやら、まったく関係がないわけがないようだ。
人は一人で生きているようで。
実は、そうでもない。
真央ちゃんは、選手を引退したのではない。
恐らく、アイコンから、降りたのだと思う。
彼女はスケートを続けるし、まだまだ若い。
これからは、誰かの期待で滑るのではなく、自分の滑りたい演技をやっていくのだ。
何かを終えたというよりも、何かを始めるということだ。

共感は素晴らしい。
だって、想像とは言え、相手の立場になって、物事を考えられるのだから。
レペゼンと口にして、同じような悪ガキたちを背負って言葉を吐き出す時。
目の前が真っ暗だった、何人もの人間に、光を見せたのだと思う。
その光は、規模の差こそあれ、同じ共感だし、近い表現なのだと思う。

自分は誰かの共感を生んでいるだろうか?
それをもし持っていないのだとすれば、おいらは、なんのために存在しているのだろう?
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 05:43| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする