整音作業の頭の部分のみ届く。
明日、整音現場に出かけて、同席する予定だ。
想像以上に苦戦しているらしく、想定よりもずっと遅れているという。
非常に細かい作業で、しかもこだわってやってくださっている証拠でもある。
むしろ、休憩なしで、進めているという。
頭が下がる思いだ・・・。
そのままお任せするのだけれど、せめて、同席して、少しでも確認しないとだ。
他にもやらなくちゃいけないことが今週になって一気に増えた。
まぁ、それもやむなし。
ただ、頭から順番にやっていると言っているから、ここからは早くなっていくだろう。
作業に慣れてくるし、イコライザーやレベルもやり方が定まってくる。
それに、後半部分は、むしろ、ピンマイクの数が揃って音声が安定してくる。
全体のレベルは、あとでミックスするのだから、平均化さえできれば良いと思えば・・・。
徐々に頭から進めて、ちょうど、あと数時間作業後から、安定していくことに気づくはずだ。
本当は開けて明日は、ある程度下地が出来ている状況で、そこから、確認していく予定だったけれど。
だから、おいらは、ただ見ているだけになるかもしれない。
まぁ、全然それでも問題ない。
なんだったら、PCだけ立ち上げて他の作業をしてもいいと思っている。
モニター用スピーカのある空間にさえいれば、確認したいときにそこにいるだけでも十分だ。
時間は限られているけれど、確実に進めることが出来ると思っている。
あと一息だ。
あと一息なんだ。
もし、この映画を公開したら。
そのあとは、この映画よりも、すごい舞台作品をやり続けなくてはいけないという重圧がやってくる。
いや、本当は公開する前の今からそうなのだけれど。
公開すれば、より、そういう側面が強く大きくなっていく。
これは、大変なことだ。
舞台と映画の違いがあったとしても、それだけで説明なんかできるわけがない。
映像では、編集で作ったテンポの部分があるけれど。
舞台で、そのテンポを目指すとしたら、どれだけ大変だろう?
それを想像しただけでも、大変なことをしたんだなぁと思う。
映像は、より、監督の意向が強くなる。
それはそうだ。
演じた後に、編集が入るのだから。
舞台は、演出の後に芝居本番があるのだから。
でも、その監督の理想に、演出家の理想に、どう近づいていくのかはカギになっていく。
お笑いの世界で、「笑わせているのか、笑われているのか」という言葉が出ることがある。
実は、これは、そのまんま、芝居の世界でも同じようなことを言われている。
どちらかと言えば、舞台は「見せる」という意識が強くなる。
そこにただ存在するだけでは、なんの意図もなくなってしまうからだ。
映像は、逆に、ただそこに生きることさえできれば、それを撮影意図、編集意図で芝居に構築できる。
それこそ、犬だって猫だって、赤ん坊だって、なんだったら一本の木だって、映像なら意図を持たせることが出来る。
でも、舞台でそれは出来ない。
だから、演じる側が明確な意図を持っていないと、あっという間に埋もれていってしまう。
視点の限定が出来る映像とはそこが違う。
まぁ、映像の世界でも、演技に意図がある役者ほど、実は重宝されているなぁと思うけれど・・・。
監督によっては、それすらも素材になっていく。
おいらは撮影準備から初めて、編集工程にも同席して。
なんだか、色々な視点から芝居を観てきた。
芝居は一度分解される。
カットごとに、セリフごとに分解されて。
映像と音声に分解されて。
場合によっては、ニュアンスまで再構築されていく。
それを知ったことで、なんというか、自分の芝居を分解して考えられるようになっている。
ここは、ただその世界に生きる場面。ここは、演技的意図を必要とされている場面。
そうやって、自分の中で、芝居の切り替えが今ならできるんじゃないかという気がしている。
明けて出かけたら。
映画の中の、音声の、音楽を抜いた、音を整える作業という。
映画全体から観たら、部分でしかない場所においらは、全身で耳を立てるのだ。
面白いなぁ。
こんなに面白いこと、あるのかなぁ。
マクロとミクロと。
こんなにたくさんの芝居を知ることが出来るなんて。