音を整えていくと書くと、良い音にしていくのだと思いがちだ。
けれど、実は音を加工するというのは、劣化だというのは、意外に思われるかもしれない。
基本的に録音というのはなるべくそのままの音を録る。
人間の耳に聞こえている以上の情報を全て空気感ごと録音する。
人間の耳に聞こえる音を可聴帯域と言うのだけれど、それをはるかに超える情報量の音声データを収録していく。
耳に聞こえない音の情報もあるからこそ、加工する時に余裕が生まれる。
イコライザーで、本来聴こえていなかった帯域の音を持ち上げて聴こえるようにしたりも出来る。
或いは、そもそも聞こえないけれど、混ざった音声になると邪魔になる低音をカットしたりする。
ローカットフィルターなどは、一般家庭用オーディオ機器でもあるから聞いたことがあるかもしれない。
低音がなくなると、高音の抜けが良くなったり、全体になった時に変わったりする。
コンプレッサーは音を圧縮するわけだし、イコライザーだって、どこかの帯域を持ち上げたり削ったりする。
響きを変えていくリバーブにしても、音声情報を疑似的に反響音を加えていくのだけれど。
反響してきた音は、当然、元の音よりも痩せている情報を加えていることになる。
やまびこ効果の、ディレイだって、当然、音の減衰効果を加えることになる。
レベルが下がり、倍音が減り、音が劣化していく。
録音された音の持つ豊富な情報をいかに劣化させていくのかがエンジニアの仕事だから。
そんな言葉を聞いて、なんというか、とても哲学的なことなんだなぁと、思ってしまった。
けれど、結果的にそうやって、劣化させていった音を重ねていくことで、音楽が出来る。
ギターは、ギターの持つ一番良い音だけを抽出して。
ベースは、本来、持っている音を太くしたり、より響かせたりする。
ドラムには、ガレージのようなリバーブをかけてみたり。
ボーカルには、フランジャーをかけて、心地よい揺れを加えたりする。
そういう積み重ねで、音楽を製作していくのだ。
元々持っている音の情報量をどんどん削っていくことで聞こえてくる音がある。
実際、日本の歌謡曲はとてもボーカルが聞きやすくミックスされているけれど。
メロディの帯域に近い、ギターやキーボードなどのイコライザーをいじらないと、声が前に出るのは難しかったりする。
まぁ、それでも、前に出てくる太い声の持ち主もいるのだけれど。
欲張って、楽器の持つ全ての音を出してしまうと、かえって、もこもこして、お互いを食い合ってしまうのだ。
こういう知識が、自分の中にすっと落ちていく。
作品を作る要素の一つである自分の芝居に置き換えることのできる哲学だからだ。
例えばどんな作品であったとしても、出演者全員が自分が目立つことばかりを考えれば、結果、作品がダメになる。
やっていることは劣化のようだけれど、実は、そうではなくて、不必要なものを削る作業と考えられる。
全員がバランスを考えて、全体感を観ることがもしできるのであれば。
全員の芝居がきちんと見えてくる作品になるという事だ。
まぁ、実際には全員が全体感を見ながら芝居をするなんて、とっても難しいことだ。
そこには、どこか客観性も必要になってくるから。
だから、舞台には演出家がいるし、映画には監督がいる。
ただ、役者の中にも何人か、そこを理解する人間がいたほうが、確実に作品は深くなる。
そして、当たり前のことだけれど、ドラマでも映画でも、そこが見えてるんだなぁという役者は、芝居がとても良いと感じる。
すぐに評価されることがなくても、確実に、いずれ評価される俳優だった。
ハヤリスタリの商売だから、急にとっても評価される俳優ももちろんいるんだけれど。
長く、色々な作品に呼ばれて、いつの間にか高い評価を得ているような俳優は、確実にそこが違う。
すたれるようなことがない。
自分が勝負する場所と、自分が全体になじむ場所をきちんと組み立てているのがすぐにわかる。
何か映画でも舞台でもドラマでも観て、やけに印象が残らない役者がいたら、もう一度見てみるとわかったりする。
必要以上にでしゃばってしまっていたりして、勝負する場所がかえって目立たなくなっているのがすぐにわかる。
あるいは、結果的に編集の都合で、カットされてるシーンがあるぞ・・・と見当がつく。
アフレコはなるべくクリーンな音声の収録をした。
正直、ここまでクリーンじゃなくていいだろというぐらい、音情報が多く、声が太い。
けれど、撮影現場で収録したセリフは、当然、音情報がそこまで多くはない。
ガンマイクであれば、周辺の音も同時に収録しているし、ピンマイクだって直接マイクに向かって喋っていない。
だから、アフレコに差し替えた瞬間に、急にクリアな音声が出てきてびっくりしてしまう。
そのクリアな音声をどんどん劣化させていって、より、収録音声に近づけていく。
もちろん、収録音声は音声で、聞き取りやすいように加工していくのだけれど。
ノイズを削ったり、薄く乗っているヒスノイズを取って行ったり。
そうやって、劣化させて混ぜていくことで、違和感をなくして、作品になっていく。
効果音もそうだ。今ははっきりしていても、劣化させて混ぜていけば、より効果的になっていく。
だったら、撮影現場に似た雰囲気にして、最初から、音情報の少ないアフレコをした方が早いと思う人もいるようだけれど。
エンジニアさんからすれば、それだけは、しないでくれと言われることがほとんどだ。
クリアな音声を痩せさせることは容易だけれど、瘦せた音声を持ち上げることはとても難しいからだ。
似たような音声で混ぜてしまうのが、実は一番、違和感になったりするから、後で修正しづらくなっていく。
かぶせた瞬間はとっても、クリアだと違和感が大きいけれど、それが正解。
こんなことも、哲学的だなぁと思う。
豊富な引出しを持ちながら、その中からチョイスしていく。
そういう芝居のテクニカルな部分によく似ている。
例えば、カメラには映っていなくても、相手役の感情が揺れるように視線を合わせてから、すっと外したりする。
それが、相手役の感情に火が付くキッカケになって、結果的にそのシーンがよくなるなんてことがある。
そういう細かいテクニックは、気付かれないことも多いし誰もみてもいないし、評価もされないけれど。
まわりまわって、自分の評価に繋がっていく。
自分がカメラから映る位置でだけそれをやっても、相手役の感情が揺れないのだから。
まったく映っていない芝居こそ、豊富な情報になるのだなぁなんて、置き換えて考えてしまう。
だから、芝居は相手役に恵まれないと、不幸なんだよなって、思ったりもする。
豊富な情報の中から、ピックアップするから、観ている人の心に届くんじゃないかなぁって思う。
整音一つで、そこまで考えてしまうのだから病的なのかもしれない。
けれど、撮影後のポストプロダクションは、おいらの様々なフィロソフィーを肉付けしてくれている。
考えてみれば、カラーコレクションも劣化作業だったりすることを思ったりする。
ソリッドにしていくこと、作品の流れを読んでいくこと。
それは、自分がこれから芝居をしていく上で、大事な大事な宝になるなぁと改めて思う。
誰も気づかなくても。
それこそ、演出家も監督もプロデューサーさえ気づかなくてもいい。
こっそり作品を豊かにする方法論を持っている。
そんな役者って、すっげーじゃんなんて思う。
おいらの思う理想にはまだまだ道が長いけれど。
確実に、違うレベルに踏み込んでいるなぁと、感じた。