昼に書面関係の連絡が届く。
やはり監督の書いたあらすじだけではいくつか情報が足りなかった。
実際に書面に英語表記での記名をする。
なんというか、本当に海外に向かうんだなぁと実感する。
Zenpoukouenfunとも記載した。
海外では、なんと読むだろう?
一体、どんな団体だと思うだろう?
こういう具体的な作業の一つ一つが、やってくる。
提出ギリギリまで、ねばって、少しだけでもクオリティを上げようとしていたのだけれど。
それにしても、それが本当なのか嘘なのかも、実際実感するのは、こういう実質的な作業の時だ。
日本語の語彙は豊かだ。
漢字があって、ひらがながあって、カタカナまである。
母音が5種類、子音が10種類、それに濁音や半濁音もある。
その上、敬語も謙譲語もある。
日本人は、言葉の種類を駆使することで表現をしてきた。
対して、英語はたったの26文字しかない。
26文字で表現するから、修飾や例え、発音や発声で、表現を深めたのが西欧になる。
日本人は敬語を使えば、目上の人との対話になるけれど、英語圏では、態度でも示さなければいけない。
だとすれば、日本語の映画の字幕は、どんな風に伝わるのだろう。
外国人的なオーバーリアクションを特別にとっているわけではないのだ。
わずかな表情、わずかな意識の動き、それを海外でどんな風に見るのだろう?
どんな字幕が付いているのかも知らないままだけれど、不思議だなぁと思う。
おいらは、海外に行ったことは一度しかない。
小学校を卒業して、中学校に入学するまでの1週間弱。
おいらは、従兄弟と二人きりで、ツアーではない香港旅行をした。
まだ見た目は、ほぼ小学生だったはずだ。
ツアーじゃなかったこともあって、わりと、自由気ままな旅だった。
まだ返還前の中国にも観光バスで入国したし、夜の市場にも行った。
おいらは、子供なのに、最終日の頃には一人でも出かけてみた。
ホテルのエレベーターで白人の老夫婦と3人だけになった時も、なぜか、会話をしていた。
いや、英語なんか喋れないはずなのだけれど、身振り手振りのボディランゲージで喋った。
意外にも、なんというか、その時、会話が成立していたなぁと今でも思う。
英語の授業を中学に入った時に嫌いになったのは、実はここらが原因のような気もしている。
会話は勉強して覚えられるようなものではないと肉体感覚で知ってしまったからだ。
それでも書面となれば、そうはいかない。
字幕となれば、もっと、そうはいかないだろう。
そういえば、海外の映画を観るとき、字幕をどうするかというのは人によって違うと知った。
音楽監督の吉田トオルさんと話していて気付いたことだけれど。
おいらは、実は、観て内容が入ってくる部分は、あまり字幕を読まない。
別に敢えて読まないわけじゃなくて、いつの間にか自然とそういう感じになっていた。
もめてるなぁとか、悪口を言ってるなぁとか、喧嘩だなぁとか、ラブシーンだなぁとか。
まあまあ、わかることなら、敢えて読まない方が楽しめると思っていた。
その話をしたら、トオルさんが驚いていた。
トオルさんは、基本的に全ての字幕を読む人なのだそうだ。
どこに物語の重要なワードがあるかわからないじゃん!と言う。
ああ、確かにそうかもしれない。と、その時に気づいたぐらいだ。
実は、おいらは、皆自分と同じなのだと思っていた。
それは、トオルさんも同じだったようでお互いに驚いた。
個人によって違うのだ。
それなのに。
それなのに、話題になったり、感動したりする作品が出てくる。
個々人で、映画の見方が違うのに。
言語の壁があるのに。
宣伝によって、動員を延ばすというのとは違う、心が動くような作品と言うのも必ずある。
その映画にはいったい何があるのだろう?
セリフを気にする人も、しない人も、同じように心を動かされてしまうのだとしたら。
年間に数百本は映画を観ているであろう、映画祭のディレクターさんは、何を観るだろう?
次から次に映画を観ていく中で、海外からの字幕作品もたくさん観ていく中で。
おいらは、やっぱり、映画の中には、物語だけでは語れないエネルギーのようなものがあると思う。
別にトンデモでもないし、宗教的な意味でもない。
それは空気感であったり、その映画に込めた願いのようなものかもしれない。
きっと、それが人の心を動かすし、無意識に観ているものなんじゃないだろうか?
英語の書面を作りながら。
おいらは願った。
届きますようにと願った。
願おうが、願わなかろうが、なんにも変わらないのかもしれない。
変わったとしても、それは、偶然なのかもしれない。
意味のない願いなのかもしれない。
でも、やっぱり、届くんじゃないかなぁ?
願いは映像にも音声にも、なんらかの影響を与えるんじゃないかなぁ?
ロケ地選定も、美術設営も、短い撮影期間も、クラウドファンディングも。
異例の映画製作だと思う。
たくさんの偶然が重なって、たくさんの思いを頂いて。
たくさんのアイデアで、壁を乗り越えてきた作品は。
やっぱり、願いがあったから、ここまで来たのだ。
だとすれば、この映像には、届いてほしいという願いがきっと映っているはずだ。
具体的な作業だ。
願いでしかなかったことを、今、実際に行っている。
きっと届くよ。
おいらは、そう思う。
同じ人間である以上、それ以上に共通するものはないんだから。
思いは、国境も国籍も、目の色も肌の色も、思想も宗教も。
何もかも関係なく共通しているんだから。