2017年01月11日

愛の結晶

作家にとって作品は子供のようなものだと言う。
作品を生みだしていくことは、産みの苦しみから始まって、紆余曲折を経るからなんだろうけれど。
それとは違う意味で、この作品は、愛の結晶なのだなぁとつくづく思う。

今、さっき、セリフの切り出しを全て終えた。
まぁ、ガンマイクからの切り出しで漏れているのとかもあるだろうから、後でチェックするけれど。
少なくても、ピンマイクからのセリフは全て切り出した。
クリップノイズが乗らないように、前後にデュレーションをかけようかと思ったけどそこまではやめた。
まだまだ工程がここから進むからその中でいいし、MAでやることかもしれないからだ。

明日の編集の準備も終えた。
今週中に編集がひと段落しないと色々と厳しい。
少なくても、来週の週末は月末の公演の稽古が入っているから、編集できない。
まとまって出来るのは今週が最後だということだ。
まぁ、やるしかない。

音楽監督の吉田トオルさんからも連絡があって。
2周目の編集が終わったら一度送るかもしれない旨を伝える。
楽しみに待っているとのご返事。
音がはまってから、いじって尺が変わってしまったらとても申し訳ないけれど。
逆を言えば、音が来て、むしろもっと良くしたいという変化があるかもしれない。
それは、クリエイティブのキャッチボールだから、むしろ、歓迎してくれるはずだ。
音で、ここまで良くなるなら、もっとここでテンポ出したいというような欲求は絶対に出てくるはずだ。
それは今までの舞台作品の演出や、音楽が来てからも同じことが何度も起きているからよく知っている。

閉じる前に、シーケンスを全て眺める。
とてつもない細かい作業の積み重ねのそのタイムラインは、まるで芸術のようになっていた。
映画をやってきた人がこのシーケンスを観たら何て言うだろう?

作品に対する愛情の結晶のようにも思えるけれど。
それとは違った意味での愛の結晶だよなと、ふと思う。

監督もおいらも、作品ももちろんだけれど、そこに映っている役者の良い所が余すことなく出るように編集してきた。
出演者の全ての魅力が出るように出るように。
そんな思いの塊がこのシーケンスだ。
少しでも良くないところはむしろ隠したりカットした。
そして良いなぁと思うところは積極的に採用を重ねてきた。
とにかく、魅力的な役者たちがたくさん出演している映画にしてきたのだと思う。
これは、もう、愛情でしか説明がつかない。
映画のセオリーでいえば、ここはこのカットじゃないだろう?という場面もある。
でも、それは、そのカットの方が役者が魅力的に見えるからだ。
作品のためにどっちがいいんだよ?と聞かれそうだけれど。
役者が魅力的に見える方が、当然、作品のためになるという信念もある。

もちろん、その魅力的だと思っている部分は、監督の感覚でしかないかもしれない。
恐らく、出演者が思っている自分の魅力とは差異があるはずだ。
或いは、舞台のお客様が思っている出演者の魅力ともズレがあるかもしれない。
ただ、少なくても、一緒に編集をしていて、おいらは、監督が選ぶ絵に納得している。
別に顔がきれいに映っているかどうかなんて全然気にしていない。
ただ、そこに存在していて、心が見えるような表情をしているカットは絶対に削っていない。
これ、素敵な絵だなぁと思ったカットで、採用されなかったことがない。
監督と長く一緒に芝居をやっているし、ずっと編集を重ねてきたからかもしれないけれど。
少なくても、おいらは、それを正しい判断と胸を張って言える。
なぜなら、監督の感覚なのに、まるで自分の感覚のように、そこが素敵だと思えるからだ。

おいらからの提案もそうだ。
いつも芝居を一緒にしている仲間たちの魅力的な表情、魅力的な芝居。
ここ、なんとか使えないですかね?と、つい言ってしまうのは、共演者にしかわからない微妙な感じがある時だ。
もちろんね。
本来はコメディもできるけど、この作品ではコメディをやっていないとかさ。
そういうどうしても伝えられない魅力もある。
この人のアクション、役的に一か所もないのかぁとかさ。
そういうのは、しょうがないけれど、この作品で出ている魅力は全て出し切りたいという思いがある。
もう、基本が肯定と言っていい。
この良さを生かすために、ここは間を詰めましょうよなんて、提案までしだしている。
おかげで、自分のカットは削りすぎちゃっているかもしれないけれど。

つまり。
作品という子供を愛の結晶ということも出来るけれど。
そうじゃなくて、この映画自体が。
監督の役者への愛情であったり。
支援してくださった皆様への愛情であったり。
この作品に懸けたおいらの思いとか、仲間への愛情であったり。
結局、そういうもので組み立てられている。
そういう意味での愛の結晶じゃないかと思えてきた。

結果的に映像から、きっと、その愛情がどばどばと漏れ出しているんじゃないかって思う。
まだまだ客観的に見れるタイミングではないけれど。
微細な部分まで、この映画には愛情が詰まっている。

それだけで。
この作品を観た人には、何かをプレゼント出来るよ。
そう、おいらは、監督に言いたくなる。
けれど、それも全て、完成して、公開してからかもしれない。
そんなことをおいらが言ったって、そう?で終わるのも目に見えているから。

愛情に支えられた映画が。
愛情で組み立てられていく。
セブンガールズは、間違いなく、そういう映画になるだろう。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:16| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする