舞台は役者のモノ。映画は監督のモノ。
そんな言葉をよく聞く。
理由は明白だ。
舞台は本番が始まってしまえば演出家が何を出来るものでもない。
だから、最後の最後で役者の意図を中心にできる。
観客は舞台上のどこだって観れるのだから、役者が一挙手一投足で表現すれば自分のモノになっていく。
けれど、映像は違う。
役者がどんなに細かく、良い芝居をしたところで、カメラに収まっていなくては意味がない。
そして、仮にカメラに収まっていたとしても、監督がそれを編集で使わなかったら結局なかったことと一緒だ。
つまり、そこには、常に監督の意図が介在することになる。
そう考えれば、編集作業というのは、神の作業と言える。
この作品に置いての神だ。
どんな演技をしようが、どんな撮影をしようが、どんな音楽を乗せようが。
最終的に編集作業でチョイスできるのだ。
この作品世界において、絶対的な権力を持っている。
じゃぁ、編集作業って楽しいんじゃないかって思うかもしれない。
自由に作品世界を前後左右できるのだから、自在なのだから。
監督も編集作業を全て終わると、編集したいなぁって思うようになるよなんて言う。
監督は作家だから、集中して何かを作っているという状態の軽い中毒になっている。
編集作業にも、作家作業と変わらないような中毒性があるのだという。
じゃぁ、編集作業って楽しいんじゃないかって思うかもしれない。
もちろん、楽しいのだ。
クリエイティブな時間の中に没入して集中して熱中している。
楽しくなければそんな状態になるはずがない。
嫌悪感が先に立って、集中状態になんか絶対にならない。
だから、楽しくないわけがないのだ。
それなのに。
楽しいか?
と聞かれたら、楽しいと即答できないおいらがどこかにいる。
それは、小さな痛みを同時に伴っているからかもしれない。
細かすぎて目には映らないような小さな切り傷を、編集しながらたくさん受けているような気がする。
それは、役者だからなのかもしれないし、おいらの性格かもしれない。
世界を切り刻むというのは、同時に、自分を切り刻むような作業なのだ。
ある意味、演技もそういうところはある。
自分の感情のありかを探しているうちに、自分がずたずたになった俳優を何人も知っている。
誰かを演じて、感情が高ぶって、帰宅して布団に入ってから、自分が何者なのかわからなくなった夜もある。
細かすぎる傷は大したダメージになんかならない。
黴菌が入らないようにすればいいし、そっとしておけばすぐに治ってしまう。
何度も重ねれば、曇りガラスのように濁ってしまうかもしれないけれど。
賢明なクリエイターは創作活動で負った自らの傷を癒す方法を自分で会得しているものだ。
今はまるで、小さな傷を受けながら、向かい風の中を一歩一歩進んでいるような感覚だ。
砂塵がおいらを傷つけていくけれど、この先に進めば、別の世界が待っているのがわかっている。
痛いとそこで止まることもできるけれど、歯を食いしばって足を出すことだってできる。
仕事で映像編集を毎日やっている人もいるだろう。
作家性を持ったまま、いくつもの、映像を製作している人もいる。
たぶん、そういう人だって、いつも小さな傷を受けているはずだ。
もう慣れてしまって気付かない人もいるかもしれないけれど。
無意識のレベルで、世界を切り刻みながら、自分も切り刻んでいるのだ。
知らなくていい自分まで知っていってしまうような行為だ。
幸い、おいらは頑丈に作ってもらった。
身体も頑丈だし、神経も頑丈らしい。
そこそこナイーブなんだぜ、実は。
人が気づかないようなことで、傷ついたりするタイプなんだけどな。
でも、おかげさまで、子供の頃から、そんなんだから、耐性がついているのだと思うよ。
けっ。知ったことか!って、どうにかしちゃえるんだ。
自分で、ゴリゴリ、軟膏でも塩でも塗って治しちゃえるんだ。
頑丈だろう?
でも、このままで行きたいなぁって思う。
自分のことも傷つけているんだって、慣れずに、感覚的に捉えながら。
そうやって編集を続けていきたいなぁって思う。
慣れてしまって、作業にならないように。
これは、創作なのだから。
編集は楽しいか?
それは、まるで、生きていることって楽しいのか?って質問と変わらないよ。