年始初編集。
今日は監督が来る前にモバイルスタジオの撮影をしてみた。
左上から。
借りているスペースに常設のディスプレイ。監督用モニタ。ミニDVI接続。
その下にヘッドセット。監督モニタ用。オープンタイプだから、部屋の環境音も聞こえる。
その右にイヤフォン。エディタ(おいら)用。二股付き。ノイズフィルターが、監督の声まで消してしまい苦労している。
その右に、コントローラー。コマ送りなどに便利。USBケーブルは結束バンドでまとめている。
その右に、メインマシン。GS60 2QE。GPU内蔵。
画面はpremire PRO CC 2017のシーケンサーの拡大画面。
その右に、サブモニタ。エディタ用。電源はPCからUSBでとれる優れもの。HDMI接続。
その下は、ワイヤレスマウス。トラックボール欲しいけど。これでも十分。
その右に、コーヒー。
PCの裏に、電源がある。
テーブルの手前にはベンチシートがある。
ここに二人でちょこんと並んで、ああでもないこうでもない。と編集している。
ここを借りれないときはサブモニタが監督用モニタになって、PC画面に小さなモニタも表示させている。
基本的に3画面か2画面での編集で、監督用のモニタは必ず用意してある。
ちなみに、このモニタは、映画のカメラを使った稽古時に確認で使用するために購入したモニタ。
また、舞台では、袖において、舞台中を確認できるというマルチな活躍が可能だ。
コントローラーのプログラムボタンには、実は、再生や早送り以外はあまり入れないようにしている。
コマ送りのホイールと、再生ボタンだけでも、かなり便利に活用できる。
自宅の作業では、サブモニタは自分用になって、PCの下に冷却用の台を置いている。
シーケンサーに表示されているのは小さくてわからないかもしれないけれど・・・。
上の2トラックが映像のABトラック。
その下の2トラックが、ビデオ音声。今は、トラックごと、音声をオフにしてあるガイド音声。
その下の緑色の8トラックが、録音データ。すでに映像とは同期してあって貼り付けをしてある。
セリフの切り出しまでは、まだしていないから、緑色がびっしりと並んでいる状態。
ちなみに写真がどのシーンかは、内緒のしょ。監督が来るまでの実時間時間にちょっと音声の修正をしていた。
常設モニタ以外の全てをモバイルバックパックに詰め込んで、今日も移動した。
到着するなり、バックから全ての機材を取り出してセッティングしていく。
各機材が認識をしているかチェック後に、大抵一服すると監督が到着する。
今日は、おいらが仮でまとめておいた終わりの方のシーンの修正から始まった。
修正後、直したい個所があったので、そこをコマ単位で修正。
これで、粗編集の前の粗粗編集版が出来たことになる。
そこからが、勝負。いよいよクリエーションの始まり。
ここまで細かい編集作業をしておいて、ここからが本番なのだから、大きく変わっていく。
特に前半部分は、まだゆったりと編集していたので、ノリシロ部分が多い。
ノリシロ部分をザクザクカットしたかと思えば、思い切って、テンポ的に邪魔な部分を削っていく。
もちろん、物語上必要ない部分な、くだらない笑いなどを切るわけじゃない。
そんなことよりも、全体を通しての、スピード感で必要ない部分だ。
だから、不必要にたっぷりとした芝居をしているシーンで、切ってしまう場合もある。
役者はその場の感情で芝居をするけれど、編集は観ている人の感情で編集するのだからそこに差が生まれるのだ。
エディターをしながら、おいらは役者なのだけれど、実は、ここの部分の分離が意外に出来ている。
例えばそれが自分のシーンであったとしても、潔くズバズバ切ってしまうし、他の人の顔の寄りにしましょうとか言ってしまう。
いつからこの分離が出来るようになったのかはちょっと定かではないのだけれど。
たぶん、監督と編集作業を大昔にやった頃に、映像全体を観る癖のようなものが付いたのだと思う。
それに、テンポを気にして編集して結果的に自分のワンショットが一瞬だったとしても、その方が印象的になる場合もあったりする。
まぁ、そうなるように編集しているわけではなくて、違和感が削れた方が良さが出るということなのだけれど。
ちなみに分離しすぎているせいなのかなんなのか、自分の芝居の評価はまったく自分で出来ない。
シナリオで表現するべき痛さが表現できているのかとても不安になることもあるけれど、それはいつも編集が終わってから思うことだ。
監督も潔いモードに入った。
最初の編集とは違って、ここも残しておこうが一切なくなる。
ここ、いらないや。とスッパリ切り出す。
もったいないなぁとか、いい顔してるけどなぁとかすらない。
全体を考えて、いるかいらないか。
それだけだ。
ほぼ監督とおいらの思っていた個所も同じ。
「ここだよな」「ここですかね」
ほぼ、同時に口にする。
お互いに気になっているところがほぼ同じなのは、18年間作品を一緒に作り続けていたから。
たぶん、監督はここを気にしてるなというのもあるし、自分が気になる場所もある。
逆に、おいらだけが気になっている場所について、質問する場合もあるけれど、それは少ない。
監督だけが気にしているという箇所も意外に少ない。
基本的にはほとんどが、二人とも気にしている箇所ばかりだ。
こればかりは、他の人が後ろで見ていても、ちょっとよくわからないんじゃないだろうか。
大体、前半の38分前後まで、どんどん直していく。
シーンごとカットした箇所もあった。
全体にして、約5分弱ぐらいだろうか?尺が縮まっていた。
こんなことを書くと、驚く人もいるかもしれないけれど。
いつもうちの舞台でも、最初の通し稽古から25分前後尺が変わることなんてザラだ。
台本でカットする場合もあるし、全体のテンポ感で尺が変わることもある。
後半の直しもしたから、38分中の5分ということはないだろうと思うけれど、それでもおかしくはない。
デビッド・宮原の作品は、それぐらいいつもテンポを気にして作ってきた。
表情とリアクションとセリフで、同じ意味を全部別でやってしまう芝居をすると、一気にテンポが落ちる。
編集で手を入れられるところがあればどんどん手を入れて、そのテンポ感を演出していく。
そう。この編集は、演出に近いのかもしれない。
映像のディレクションだ。
後半の数時間で38分まで進むのだとすれば、ここからは早いかもしれない。
ただ、もちろん、後半のシーンはすでにテンポ感が良いシーンも多い。
前半ほど、派手に編集ができるかどうかはちょっとわからない。
もちろん、ただテンポが良いだけではなくて、必要な余韻や情緒は残していかなくてはいけない。
テンポをよくしようとしすぎてそこまでなくならないように注意しながらの作業になっていく。
後半は、やはりクライマックスを始めとして、情緒の強いシーンが並んでいくのだ。
とはいっても、このペースで進むなら135分ぐらいになりそうな気配もする。
パッケージとして想定していた尺にかなり近いことになる。
帰宅して、カットした前後などの音声データの調整もする。
細かくいじれば、ちょっとずつずれたりもするのだ。
覚えているうちに全て直さないと後で痛い目を見る。
ようやく、さっき、その直しが終わった。
さあ。
明日は夜に編集だ。
どのシーンまで進むだろう?
白版まであと一息だ。
潔く。
削ぎ落していく。
ソリッドに、ソリッドに、作品を作っていく。
これは下書きに筆入れしているような作業なのだろう。
けれど、仕上げじゃない。
仕上げは更に先になるのだ。
仕上げたところで、それを額縁に入れて、どこに飾るのかって作業だって待っている。
そういう意味ではまだまだなのだけれど。
やはり、下書きとは違う、ダイナミズムが生まれてきている。
シーンごと、カットごとに観てきた芝居が、全体の作品として観るようになっているからだ。
作品を良くしていく。
それ以上に大切なことなんてあるわけがない。