2016年12月13日

尺調整

役者が演じる時にたっぷりと間を取ったり、詰めたりする。
1カメラ、1カットであるなら、それはそのままその間を生かすことになるけれど。
カメラが2台であったり、2カット以上あって、動きに大きな矛盾がなければ、実は調整できる。
アングルを変えてしまえばバッサリと間を削ったり、逆にイメージショットを挟んで間を作ったりできるのだ。
尺調整ってやつで、監督はシャクチョーシャクチョーと言う。

これをやっていて思うのは、監督の頭の中で流れているリズム感だ。
役者は恐らく、主観的に間を作っている。
自分の中で気持ち良い間で芝居を作っている。
その自分が、役の自分なのか、役者本人なのかの問題はあるにせよ、そうなる。
ただ、監督や演出家は、完全に客観的なリズム感になる。
ここはこのリズムじゃないと有り得ない。そういう鉄板なリズムがある。
よく、間は役者の物だなんていうけれど、映像編集が加われば、それすら調整できるのだ。
だから、これをやるのは、とってもためになる。
なぜなら、監督が求めている、客観的なリズムが手に取るようにわかるからだ。

ノンリニア編集をやっていて、恐ろしいのは、音は全て波形に現れることだ。
全ての音が波形で表示されている。
だから、倍音の豊かな俳優の声の波形はとても濃いし、届きづらい声はやっぱり波形が薄い。
それは、小さな声や、こそこそ声、ハ行の無整音であっても変わらない。
発声の基礎が出来ているかいないかが、視覚的に見えてしまう。
その上、その俳優がどんな間で、どんなふうにしゃべっているかわかってくる。
長台詞を全て同じリズムで切れば、喋って休んでの波形が見事に、視覚的にリズムになってしまう。
通常の会話ではありえない不自然なリズムや節回しが、全て、波形になって出てしまう。
どうも、眠いセリフだなぁと感じれば、それは、単純なリズムでセリフを回していたからなんてことが起きる。

ここは、本当に勉強になるよ。
編集していれば、完全なる客観でセリフを、視覚で見ることが出来るのだから。
例えば、セリフの頭の子音が落ちがちな俳優は、そのまま波形になって表れる。
ああ、この子は、発生でここが苦手なんだなぁなんて、あっさり見えちゃうんだ。
編集していて、子音やアタックが弱いと、編集点を見つけづらい。
大抵、それは同じ俳優になってくる。
面白いのは、口を開けてから声が出る役者と、同時に声が出る役者がいたり。
セリフを言う前に、少しだけ、吐息が入る役者がいたりすること。
そういう小さな癖も、手に取るようにわかっていく。

ちなみに、色々な音声を出せる俳優は、どうやら倍音が豊かな発声を持っている俳優だけだ。
倍音が多いからこそ、低音部や高音部、或いは、音色を変えたり調整できるのだ。
そもそも、発声が弱い俳優は、倍音を持っていないから、幅がない。
言われてみれば、名優たちは、豊かな低音の倍音を持っているよなぁと気づく。
ナレーションで有名な俳優の音声は、とても豊かだ。

その波形を観ながら、この吐息は切るとか。
或いは、この長台詞のこことここの間を取っちゃって、一息のセリフにするとか。
或いは前の人のセリフの後の間をばっさり切って、少し次のセリフをかぶせちゃうとか。
コマ単位で細かく尺の調整をしていくのだ。

映像の継ぎはぎの段階では、実際の映像データに紐づいたガイド音声で編集しているけれど。
つまり、それは、当日に何台かのマイクをミキサーでミックスして、カメラに返している音声だ。
でも、映像継ぎはぎ後に貼り付けていく音声は、ミックス前のデータだから、全てのマイクデータを貼り付ける。
そうなれば、それぞれのセリフを、一つずつ拾っていけるから、もっと細かく尺調整できるだろう。
やろうと思えば、息継ぎなしのとんでもない長台詞だって、編集で作ることが出来るのだ。
一つのセリフの中で調整されてしまうこともある。
役者は、実際の完パケを見て気づくのだろうか?
殆ど、気づかないんじゃないかとさえ思えてくる。
そのぐらい自然につながっているからだ。

映像を観ていれば、セリフなんて芝居にとって、どれだけ大事なものだよ。とも思う。
細かい表情や、小さな変化、リアクション。
それに比べれば、セリフの持つ意味なんて、実に些少だ。
けれど、やはり「言語」の持つ、意味を特定する力はとっても強い。
悲しい表情をしても、「悲しい」という言葉には勝てない側面がある。
そこを逆転するのが、芝居なのだけれど、強いものだからこそ、大事に扱わないといけないのがわかる。

昨日の編集部分を整理した。
細かくコマ単位で、セリフの被りなども全て取っておいた。
整理し終わった後、通してみてみたら、監督の想像しているテンポの速さに、笑ってしまった。
芝居よりも、そのテンポ感が面白かったのだ。

思うに、映画が完成したら、このテンポで、生芝居が出来るように練習すればいい。
それだけで、きっと、とっても勉強になるだろう。
なぜなら、編集という監督の脳内世界がはっきりとわかった後なのだから。
求められているテンポ感を体感できるようになるからだ。

いくつかのシーンの尺調整は。
そのシーンのためだけにあるわけではない。
一つのセリフのためだったり、前後のシーンのためだったり、オチのためだったり。
そういう計算の中で尺調整をしている。
それは、もう、物語の構造論にまで達するような作業なのだ。

おいらは思う。
これをシナリオをもらった時点で想像できる俳優になるべきだよなと。
本当に良い役者っていうのは、そういうことが出来る役者なんじゃないだろうか。
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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:55| Comment(0) | 編集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする