編集に向かう前にこの映画製作日誌のBLOGで記録しておかなくてはいけないことがある。
どのスタッフさんもこんな撮影は、考えられないといった撮影手法のことだ。
役者の多くはこの撮影方法の何が凄くて、何にスタッフさんが感心していたのか理解していないだろうと思う。
いつもの舞台で考えればそれほど疑問の挟むようなことはしていないはずだと思っているはずだ。
けれど、この撮影は余りにも異例で、これまでにないやり方で進んでいた。
映画の製作を資金調達からBLOGにしているというのは余りない。
このBLOGをいつか参考にする人が出てきたときに、少しでも力になるかもしれない。
けれども、この手法は、参考にしたからと言ってそのまま実行できるものでもないかもしれない。
これをやるには、多くの時間と、覚悟と、鍛錬と、そして何よりも情熱が必要だからだ。
監督のアイデアと、その手法を理解すること、その全てが揃わないと到底できないことだった。
もちろん、潤沢な資金があれば、こんな方法をとる必要はない。
撮影期間が長くてもいいのだから、たっぷりと時間をかけて撮影すればいい。
逆に資金が少ないのに、長い期間スタッフさんを拘束するような低予算映画もあるらしい。
そういう低予算映画は、映画業界を衰退させるものだという意見もあるようだ。
そういうすべてを解決するには、やはり短期間でクオリティの高いものを撮影する手段を身に着けるしかなかった。
低予算だからクオリティを落とすのではなく、短期間にするということだ。
まず第一に、美術に工夫を凝らしていた。
パンパン小屋のセットは、壁を取り外せるようにしていた。
最大で6枚の壁を取り外し、或いはすぐに取り付けできるように組んであった。
これを1~2分もあれば、男手ならいつでも、セッティングできる。
カメラのアングルが変わるたびに、壁や柱を取り外し、また組み上げた。
それも手が空いている男の俳優が即時やるようにしていた。
そのうえで、ここにカメラをセッティングすれば、殆どのシーンを撮影できるポイントを設定していた。
その視点を中心に物語が展開できるように、シナリオから演出まで仕掛けをしてあったのだ。
もちろん、その視点だけでは撮影できないシーンもあるけれど、基本的にはそこからが中心だった。
そこにミニクレーンを設置すれば、70%のシーンが撮影できるというポイントを作った。
その次に、芝居の稽古だ。
このBLOGを読んでいる人は、稽古を重ねてきたことをよく知っていると思うけれど。
その稽古にも仕掛けがあった。
全てのシーンを通して、いつでも出来るようにしてあった。
通常、映像であれば、シーンはカット割りされ、カットごとに撮影される。
それをカット割りするしないに関わらず、全てをシーン単独で通して出来るように稽古してあったのだ。
誰かが会話しているところに、誰かが帰ってきて、中から誰かが出ていく。
そういう流れを全て、通しでタイミングも含めて稽古してあったのだ。
もちろん、現場ではそれをこっちのカットも撮影しておこうというのが繰り返されたけれど。
基本的に通しで一本撮影しておけば、撮りもらしなどが発生するはずがない。
そういうところまで稽古してあった。
現場では、まずシーンの芝居をスタッフさんに見せて、セッティング後に、カメラテストから本番。
5分以上のシーンも含めて、100シーン以上それが繰り返された。
全てのシーンにはすでに演出が入っており、監督による演出直しも最低限で済んだ。
実際にモニターに映し出された演技を見て、監督が思いついて、やっぱこっちにして!という希望ももちろん出たけれど。
俳優は、即答で「はい」と答えて直し、例えば、映像の現場にあるような「気持ち待ち」など1秒もなかった。
要求された芝居を、すぐに出来るように準備しようと役者同士でも、確認してあった。
そして、通常なら長尺と言われるような撮影が、いくつも繰り返されたのだ。
更にはスケジュールだ。
通常の撮影スケジュールには、時間が書いてある。
8時からシーン○○、10時からシーン○○。12時から昼休憩。
そんなスケジュール組を各シーンのシナリオページ数から割り出して組んでいく。
ところが今回のスケジュールには、何時から・・・という情報が一切なかった。
あるのは、撮影順だけで、撮影できるところまで撮影して、切りのいいところで休憩というやり方だ。
その上、撮影開始当初のスケジュールではこぼれる可能性が多分にあった。
だから、認識として必ず、今日のスケジュールにあるところの撮影は完了して、そのうえで翌日のスケジュールも撮影する。
そういう目標で撮影をしていた。
そして、当たり前のように、常に当日スケジュールだけでなく、翌日のスケジュールも撮影を重ねた。
毎日、スケジュールを巻いていくという徹底的な目標を持っていたのだ。
これをするには、いくつか大事な要素がある。
通常なら翌日スケジュール分の撮影をするのは本当に大変なことらしい。
役者に伝え、衣装さんに伝え、メイクさんに伝え、美術さんにも伝える。
当然、役者はその日の撮影分の準備をしてきているだけだから、断られることだってあるという。
衣装さんからは、その日の撮影する衣装しか用意していないのだから当然、難しいと言われる。
助監督さんが、こんなことを出来るのはありえない!と監督に伝えたのはそういう理由だ。
けれど、フレキシブルに対応するように全役者に伝えてあった。
「スケジュールではシーン54だけど、変更します!このあとシーン23、72、74、95で行きますー!」
この一言で、登場予定の全役者が即座に対応するのだ。
映画内の時系列が逆順になったからと言って、なんの影響もなくだ。
衣装を変え、メイクを変え、美術を変更して、役者の心境も即座に変更していく。
映画俳優からしたらきっと有り得ないことだけれど、舞台で場当たり稽古をしていればそれほど不思議じゃないこと。
準備もしていたけれど、いつどのシーンを撮影すると言われても対応できる俳優であり続けた。
もちろん、その日に撮影予定がない役者も、常に現場待機していた。
翌日分も撮影する可能性があると全員に伝えてあったからだ。
少なくてもおいらは、当初のスケジュールで火曜と金曜は撮影予定がなかったけれど、撮影しない日なんかなかった。
いつでも、撮影できる準備をしていなくては出来ないことだ。
日によっては3シーン分の衣装を重ね着して待機していた。
気付けば、予備日に予定していた撮影分も最終的にスケジュールに組み込まれ、予備日には撤収準備に入れた。
誰もが出来るはずないと思っていたボリュームを、本当に撮影しきったのだ。
凝縮した時間で撮影することに、クオリティで疑問視する人もいるかもしれない。
本当に最高のカットを撮影するために、1カットに1日かける映画監督だっているのだ。
納得できる芝居が出るまで、何度でも撮影する監督だっているのだ。
けれど、おいらから見れば、そっちの方が実はクオリティが低い場合もあるんじゃないかと思っている。
なぜなら、たった1日で、どんなに繰り返したところで、劇的にクオリティが上がるわけがないからだ。
4回の公演を繰り返し、7か月以上稽古を重ねた芝居が、たった1日の偶然の芝居に負けるわけがない。
スタッフさんから撮影後にいただいた言葉においらが泣けてきたのはそこだった。
既に芝居が完成されていたことだとか、撮影しながら涙したシーンがあったことなどが書かれていたのだ。
凝縮した時間で、全ての撮影を終わらせるという目標は、現場にある種の緊張感を生んでいた。
ダメな芝居をすれば、全員に迷惑をかけてしまうというプレッシャーが常に俳優にはあった。
フィルムからデジタルになった一番の弊害は、何回だって撮り直しが出来るという状況を作ったことだ。
フィルムと違って、デジタルはNGが出ても、現実的に予算を食うことがないからだ。
俳優が自分の芝居にどうしても納得がいかなくて翌日に・・・なんて話も何度か耳にしている。
ひどい話でいえば、俳優が今日は出来ないと口にして、翌日になったなんてことも聞いたことがある。
おいらたちは、一発本番で、一発OKを常に目指していた。
舞台俳優だから、「芝居の一回性」を肌で知っている。
NGを出した俳優は、本気で悔しがるだけではなくて、スタッフさんに申し訳ない・・・と全員が口にしていた。
一発OKが出れば、俳優はハイタッチをして喜んだ。
絶対に、カメラテストが終わってからの本番で、最高のモノを出す!と気持ちを固めてあった。
製作スタッフが、この撮影方式を全ての映画に導入してくれたら、どれだけ良いだろうと口にした。
全てが、予定よりも前倒しで進んでいくなんてことは、今までの経験で有り得ないことだからだ。
撮影最終日。
プロデューサーが現場を観に来た。
最終日にもなれば、ほぼ全員が現場に慣れていて、スタッフさんを含めて、一つの座組になっていた。
撮影の流れも、スタッフさんの動きも、わかってきた中での、全体の動きを見て、プロデューサーは泣けてきたと口にした。
芝居をしている俳優、セッティングしている俳優、スタンバイしている俳優。
全員が、このスケジュールでの撮影に向かって、スムーズに動いていることに、驚いていた。
そして、よーいスタート!の声と共に、モニタに映し出される芝居に、驚いてくれた。
動き回っている人間が、本番のカメラの前で、一気に俳優になるのを目にした。
こんなことは、普通の映像の現場でありえないんですよ。
・・そんなふうに、おいらに言ってくれた。
映画のクオリティを本気で上げようと思うのであれば。
やっぱり、プロのスタッフさんが、プロの仕事を出来るようにするしかない。
けれど、予算がないのであれば、格安でお願いするか、時間を絞るしかないのだ。
もちろん、格安ではあるけれど、時間を延ばすようなことはしたくなかった。
そして、それに応えるための仕掛けと、芝居を用意するしかなかった。
自分の芝居は棚に上げるけれど。
皆がした芝居は、本当にすごいものだったと思う。
結果的にどんな映像になるかは、編集後の話になるけれどさ。
そして、公開後に誰からどんな評価をされるのかも、まったくわからないことだけどさ。
おいらが、モニタを通してみる限り、素晴らしい芝居が繰り返されていたよ。
少なくても、おいらは、胸を張って言い切れるよ。
これは、情熱がなければ出来ない撮影方法だけれど。
結果的に、作品的にもマッチした、素晴らしい映像を撮影できる方法でもあったと思っている。
ある意味では舞台的で、ある意味では映画的で。
その融合を高度なレベルでやっていく方法であったんじゃないかと。
夢を夢とせずに、現実として受け止めれば、夢ではなくなる。
これは、そういう風に撮影された映画なのだ。