2016年10月09日

階段を上るのだって稽古

昨日は結局、雨の中移動しないで済んだ。
営業時間開始と同時に電話して、うかがう旨をお伝えすると。
お話の中で、前予約を直接うかがわなくても良いと言っていただいた。
なんというか、こういうご厚意が続く。
本当にありがたい話だ。

おいらの本業は俳優だ。
そうと決まれば、自分のシーンが出てこようが出てこなかろうが、稽古に向かう。
そこからブレることはない。
自分のシーンが出てこないで、ただただ稽古場で消耗することだってあるかもしれない。
でもそんなことは関係ないのだ。
様々な段取りを組みながら、様々な作業をしながら。
隙間でも芝居のことを考える。
それぐらいのことを出来るキャパシティはとっくに出来ている。
時々、心配する人もいるけどね。
おいらは、初舞台のその日から、芝居だけをやったことなんか一度もない。

いや、むしろ、すべてが芝居なんだって思っている。
時々、ぞっとすることがあるのだけれど。
スタッフワークを芝居だと思っていない役者って実はいる。
そんなに数はないけれど、映像の現場を見ていてもすぐにわかる。
本当にベテランで、良い役者と言われている方ほど、スタッフワークが芝居だと知っていることを。
それぐらい、芝居っていうのは枠が広い。
舞台にはない「撮影」は、もう完全に芝居心がないと出来ない仕事だ。
編集なんか、芝居心がなかったら出来ない。
舞台にもある照明、音響は、まさに芝居の塊だ。
照明の仕込みは、役者でいうところの役作りだ。
照明のキッカケ表は台本だし、オペレーションは、芝居的な間を使うことだってある。
音響も当然、芝居だ。
うちの劇団のブースでは、トオルさんがキーボードを弾き、けんけんが踊りながら照明を操作したこともある。
これを芝居と言わなくてなんというのか。

だから、様々なことをやるのは、視点がそのキャパシティ分だけ増えるということだ。
照明の効果や特徴を知っていれば、どこに立てばいいのかわかる。
音楽の効果がわかっていれば、シナリオの中から明確な音のきっかけを探せる。
撮影の狙いが理解できれば、どこで視線を変えるかもわかってくる。
自己の中の視点が増えれば、その分だけ芝居は深くなる。

全てが芝居の稽古なんだよ。

でも、正直、そのキャパシティがないなら、やれる分だけやればいいよって思っている。
必要なのは強烈な意思だけだけど、キャパシティを超えちゃってブレるなら、やらないでいい。
何が起きようとブレない強さを持つ者だけが、そこに立てる。
強さを失いのであれば、そこに立つ資格さえ失うんだ。
そういうつもりで、おいらはやっているよ。

さあ。
稽古だ。
今日、全て出来るだろうか。
男は来週から美術設営に向かわなくちゃいけない。
全ての段取りが付かないとだ。
そこから、先は、もう役者が個人的に深めるしかない。
でも、個人って言っても、現場に入れば四六時中相手役だっているよ。
合わせたければ合わせる時間もあるさ。
どんどん成長しながら撮影だってできる。
いや、ここまで稽古をして挑める映画なんか実はどこにもないんだ。
やれるだけ準備したら、おいらは監督をはじめとして100%スタッフさんを信じる。
だから、その分、芝居を深めないとだ。

タイトなスケジュールだ。
稽古が終わってからの打ち合わせもあるのだから。

もうすぐだ。
もうすぐ、あの場に辿り着く。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 09:39| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする