先日書いた某企業に連絡する。
恐らくここに電話したらいいだろう番号にコール。
まず担当者さんに辿り着けるかどうかだけれど、さしたる苦労もなく、担当者様に繋がった。
映画の内容と趣旨をお伝えする。
まずは、メールで資料だけでもお送りさせていただきたい旨をお伝えする。
結果的にその後のやり取りの中で、早速、明日の午前中のアポイントが取れた。
もちろん、実際にお借りできるかはわからない。
敷地内を見せていただけても結果、難しいという事もあるかもしれない。
それでもやはり、自分に出来ることは全部やっていくしかないって思う。
やり取りの中で、既に本社総務部に軽く確認してくれている旨を知り、驚く。
こんなに丁寧に対応してくださるなんて。
ご担当者様と話せるのにも、時間がかかるかもしれないと覚悟していたのに・・・。
老朽化した施設だから安全性を気にされている。
当然、安全責任者をこちらで立てる等の、誓約書や覚書を用意していかなくちゃいけない。
むしろ、老朽化しているような建物を探しているのだ。
でも、実際に貸すとしたらという前提ですでに考えてくださるとは思っていなかった。
そして、おいらのような役者が、大企業の本社ビルに行くことになるなんて、良いのかな?という思いもある。
いつだったかの舞台で、東芝様のノートパソコンをタイアップでお借りしたことがある。
その時のご担当者様の対応も、今も、覚えているけれど、とても素晴らしかった。
小劇場で使用する小道具でしかないのに、真摯に対応してくださって、貸し出せる端末を探してくださった。
大手企業だからというわけではないだろうけれど、企業としての対応だけでも、品格があった。
今回もまさに、そういう空気感を感じていて、実際に面と向かってお会いする運びになった。
不思議な事だ。
基本的には、ただの役者でしかない。
有名人でも芸能人でもない。
昔なら河原者と言われた存在だ。
そんな自分が、西に東に移動する。
通常だったら、ありえないような、アポイントや、ただただ当てもなく走り回ったりする。
普通に役者だけをやっていたら知り得ないことまで、知っていく。
様々な人と出会って、話をしていく。
いや、けれど、逆かもしれない。
役者だからこそなのかもしれない。
様々な人と接して、話をして、経験を重ねていく。
そのこと自体は、役者という方向から見れば、ただプラスしかないからだ。
このロケ地の選定だけでも、一体、何人の人と話しただろう。
土地に生きるおじいさんから始まって、現代美術の先生や、彫刻家の皆様とも話をした。
或いは、地主さんとも話したし、不動産屋さんとも話したし、町内会長さんとも話をした。
知り合ったたくさんの人たちとの経験は、全て、自分にとっては宝だ。
役者としてみても、この経験が自分の血になり、肉となると思っている。
郊外の方とばかり会っていると思ったら、急に都会の大企業の方ともお会いする事にもなった。
この道は、なんだか、わざと通らされているのかもしれないとさえ思えてくる。
そして、そういう積み重ねが全て、作品への思い入れになる。
この世のどこにこんな思いを重ねながら映画に取り組んでいる役者がいるのさ!なんて思うようにする。
そんなことしないですむの。普通は。なんて同時に思うんだけれども。
でも、結果、作品への思いが深まるのであれば、そっちの方が良いに決まっている。
仮にこの企画が終わって、他の作品に取り組むことになった場合も。
どこかで誰かが作品の為に走り回っていることを知っていることと知らない事では大きな違いだと思う。
知っているといっても知識ではなく、経験として知っているのだから。
「ご苦労様です」という言葉の重みだって変わってくるさ。
明日はどんな出会いになるだろう。
お願い事をしに行くというのに。
おかしなことだけど、むしろ、おいらはまずそこに興味を持っている。
どんな話になって、どんな話が出来るだろう。
先方は勤務時間で、仕事中なのだ。
仕事としてお会いするのだ。
時間だって限られている。
人から見れば、おいらは、つまり営業に行くという事なのだろう。
でも、そんな風に、ビジネス感たっぷりで行く感じにはどうしてもならない。
やはり、クリエイターとして、企業様にまず思いやお願いを伝えるというスタンスになるのだろう。
良い話に繋がっていけば良いな。
おいらに出来ることは、誠意をもって、お伝えすることだけだけれど。
ただの一歩だ。
それが大きな一歩か、小さな半歩か。
そこは大した問題じゃない。
一歩だけでも前に進んだことが大事なんだ。