W杯最終予選の後半戦だけ見る。
不可解な判定にどうしても納得がいかない場面が多く、今もジリジリしている。
海外だったら、あの審判団は既にボディガードを帯同しているだろう。
ホームゲームであんなことになるというのは、協会も含めて、なめられているのかなぁ。
選手側からはペナルティもあるから、余り、ジャッジへの不満は出ないだろうけれど。
世界で戦うというのはそういう事なのだと思う。
少なくても、サッカーという世界で見れば、ホームタウンディジションがあるのが普通だという。
言語、環境、観客席、気象に加えて、ジャッジも不利になるのだという。
それに加えて、精神的な圧力や、騒ぐことで前日に眠れないような工作まであるという。
日本人は、どうもそういう工作が苦手で、日本に来るチームにやりづらい環境を作ることはしない。
この時点で既に不利なのだけれど、逆を言えば王者の戦いをアジアではしているということでもある。
そこまで考えれば、選手たちがこのぐらいで不満をいう訳はないだろうけれど。
協会が厳重な抗議をするというので、少しだけ、留飲を下げた。
世界における平等とはどういうことなのだろうか?とは思う。
おいらの中では平等というのは、もちろん、絶対的な価値を持っている。
それは、演じるうえでのことでもだ。
ただ、時々、それを勘違いする人も何度もみかける。
都合のよい平等という言葉の使い方をする場面も何度も観かけてきた。
例えばチャンスは平等であるべきだけれど。
差があるのであれば、差がついていることの方が平等だという事だ。
それまで積み重ねたもの、背負っている責任、信頼感、実力。
そういうものは、すぐに差になっていく。
その差がついているのに、なんでもかんでも同じにしたら、その方が不平等だ。
数の大小はあるかもしれないけれど、少なくても、チャンスが平等にあるのであれば。
やはり、差というのはついていく。
それは、差別ではなく、評価だ。
良く言うのは、板の上では平等だろ?という言葉だ。
舞台という性格上、本番の板の上は、完全に平等だ。
お客様の目から見れば同じだし、自分が何でもできるように相手も何でもできる。
どちらかがどちらかを制することなんて、本番という時間の中では出来ない事だ。
例えば先輩と芝居をしているときも、板の上では先輩だからという遠慮をしたことがない。
この劇団に参加してから後輩と同じ板の上に立つことが増えたけれど、そこも別に気にしていない。
そうじゃなければ、この劇団に途中参加のおいらは、きっと、何もできなかったと思う。
入団した時は周りが全員先輩だったのだから。
難しいのは、だから、その差を自分自身が認められない時だ。
明確な、あの人は有名で、自分は無名のような差であれば、簡単に受け入れられる。
けれど、明確ではない差も実際に山のように存在している。
芝居なんかしていれば尚更のことで、明確な基準がないものほど、差は見えづらくなってくる。
単純な技術的な差だって、基準がどこにあるのか口でまともに説明できる人が少ないのだから。
でも、おいらが知る限り、差別というのは演劇の世界では見たことがない。
第三者の視点で見る限り、まっとうな評価しか見たことがない。
個性という最高に便利な言葉があるから、差なんてものに目をつぶることが簡単なのだ。
でも、おいらは思う。
差を認めていかないといけないぞと。
少なくても、自分は差を認めていかなくてはいけない。
あいつと、おいらとの間には差があるのだ。
それをちゃんと理解する方が絶対にプラスだ。
その上で、その差を埋めていくのか、他の方法をとるのか考えるだけだ。
おいらたちはこの映画で世界と戦いたいと思っている。
もちろん、世界に持っていこうと思っている。
映画文化の世界はとか、芸術分野はとか。
いつだって、平等に決まっているよと口にする人も多いけれど、そんなことはない。
少なくても、日本語を使う映画の時点で、英語圏では不利になる。
LIVEな板の上なら、まだきっと平等かもしれないけれど。
海外に持っていった時点で「日本の」という接頭語だってつくのだ。
字幕が嫌いな観客や審査員は足を運ぶことすらしないのは当たり前の事なのだ。
そもそも反日な人は、最初から悪印象でさえある。その逆もしかりだけどさ。
ただ、それをやはり、世界の平等なのだとおいらは思う。
きっと、世界に行くという事はそういう事なのだ。
日本と世界には当然、差がある。
そしてその差に準じた評価がある。
それは差別ではなく、あくまでも俯瞰で見れば平等な評価なのだ。
世界のほかの国々にも起こりうることなのだ。
少なくても、差別という言葉でごまかしてはいけない。
人種差別や、身分差別、性差別、そういうものと一緒になんかなる訳がない。
資本主義はシンプルだ。
頑張れば頑張っただけ帰ってくる。
社会主義は、どんな人であれ、平等なのだという。
その二つは反目し合いながら、今日に至っているようで。
実はどんどん融合していると言った方が良い。
資本主義国家にも社会制度が組み込まれ、社会主義国家は経済の開放をチョイスしている。
結局、平等に違いなんかなかったということだと、おいらは思っている。
きっと大きな差がある。
そして、その差に準じた評価がある。
その上で、更に勝利と呼ぶような何かを掴むには、理解が必要だという事だ。
大きな差が何なのか、受け入れていかなくてはいけない。
おいらなんて存在は未だに誰にも評価されていないようなものなのだ。
それは、至って、平等な結果である。