2016年08月31日

8月が終わろうとしている。

8月最終日。
夏休みも終わってしまうか。

来る来ると言われた台風10号も、首都圏には大きな被害を残すことなくかすめていった。
前日に備えて構えていた分、拍子抜けだと口にする人も多い。
得てして、準備は無駄になることが多い。
だが、こんな無駄なら大歓迎だ。
最悪の想定と最高の想定。実際に目の前に起きた時のアレンジ能力。
全ては通じているという事なのだろう。

いよいよ9月に入れば、様々なことを具体的に進めていかなくてはいけない。
衣装や小道具、何が足りていて何が足りていないのか。
一つ一つ検証していかなくてはいけない。
撮影日当日に、あれがない、これがないでは、様々な支障が出る。
最悪の想定と最高の想定。
全員が全員、責任を持って取り組んで、それでも抜けが出るだろうから、フォローも必要になるだろう。
小道具の取り扱い一つで、芝居が崩れることもある。
あらゆる想定をして、稽古でも出来る限り想像力を働かせないといけない。

映像の仕事だと、大抵は衣装も小道具も用意する必要はない。
俳優は身一つで現場に行けば、着る物、履く物、使う物が揃っている。
時代考証やサイズ、色味、映画の雰囲気などすべてチェックされたものだ。
役者さんは芝居さえしてくれたらいい。そういう状態で待っていてくれる。
でも、今回は、そうではない。
衣装も小道具も、それぞれ役者で用意できるだけしていく。
それがあるだけで、事前に練習が出来るし、それがあるだけで、他に予算を回せる。
小道具担当や衣装担当のスタッフさんがつくだけで、人件費が膨れ上がってしまう。
もちろん、そんなの無理だよ!と口にする役者はいない。
何故なら、おいらたちにとって、そんなことは当たり前の事だからだ。
これまでの舞台でも、当たり前のように自分たちで用意してきた。

意外に思う人もいるようだけれど、実はメジャー劇団などでも、小道具係なんかは劇団員がやっていることが多い。
もちろん、歌舞伎とか能とかの伝統芸能は別だけれど、劇団だと大小に関わらずいたりする。
大抵は手先の器用な役者が、自分の使いやすい道具を自作するようになって。
頼まれたりしているうちに、小道具はあいつに相談みたいな流れになっていく。
出来上がった小道具は、その劇団の資産になって保管管理されていく。
外のスタッフさんに頼んでしまうと、稽古場では小道具がないという事態にもなりかねない。
そして、壊してしまえば、色々と面倒なことも起きる。修理もしていいのかわからない。
自分たちの持ち道具である方が、芝居をするうえで制限がないのだ。
最近では劇団の小道具を創っているうちに、作品が溜まって、個展を開いたなんて話も聞く。
拘る人は、とんでもない小道具制作術を身に着けていくのだろう。

ただし映像になると、小道具管理には別の仕事も発生する。
例えばちゃぶ台の上に灰皿と湯呑が置いてあるシーンがあって。
同じシーンで別のカットを撮影した時に、片方では湯呑がなくなっていると、編集する時に繋がらなくなってくる。
このシーンではどの小道具がどこにあるというのを細かく現場で確認、チェックする仕事というのがあるのだ。
例えば鏡台はパンパン小屋だから必ずあるのだけれど、基本は、スタッフさんの映り込みを気にして布をかけておく。
鏡台の前で芝居をする役者がいれば当然布をあげるのだけれど、その役がそのまま立ち上がってどこかに行ってしまうとする。
その後のシーンで、映り込みがあるから布を戻したら、絵が繋がらなかった!なんてことが起きる。
さっきの芝居で、ちょっと布を戻す芝居をしていれば全てつながったのに・・・と言っても後の祭りになってしまう。
誰があの布を戻したんだよ!という気持ち悪いことになってしまうのだ。

衣装係も同じだ。
同じシーンを2カット撮影したら、ショールが右巻きと左巻きと違ってしまえば繋がらなくなる。
撮影現場にも各スタッフさんがいるのはそういうことまですべてチェックしているという事だ。
でも、この辺に関しては、役者がちゃんと管理しようと言っている。
当然、役者は芝居に集中しているし、うまくいかない・・とか、もっと良くしたい!とか考えている。
その中で、こういう細かい部分にも注意していかなくてはいけないという事だ。
最初のシーンから順番に撮影するなら、そこまで気にしなくてもいいかもしれないけれど。
時系列が前後する可能性まであるのだから、やはり、あんちょこは必要かもしれない。
いちいち、衣装や小道具のリセットする位置を記憶しておく余裕が必要だという事だ。

まぁ、こう書くと過酷なように思えるかもしれない。
誰か担当を決めて、任せた方が良いような気もするかもしれない。
でも、事前にその覚悟をしているなら、そこまで大変でもないなと思える自分がいる。
・・・というか、おかしく思えるかもしれないけれど、そこまで考える方が芝居が良くなると思ってさえいる。

人間というのは、もう脳科学でも何でもはっきりしているけれど、一つの事だけ考えることはできないのだ。
常に複数の事を頭の中で同時進行で考えて、行動をしている。
完全に一つの事に集中しているような状態というのは殆どない。
オリンピックで結果を出すようなアスリートに話を聞くと、実はものすごい集中とは別の状態にあったりする。
客席にお母さんが見えたとか、誰々の声が聞こえて力になったとか。
意外に、リラックスして周囲の情報も整理しながら、シンプルに競技に向かっている選手の方が結果が出ている。
何かに考えが集中していくのは同時に周囲が見えなくなっていくことで、凝固に近く、力を発揮できる状態じゃないのだ。
本当に力が発揮できる状態というのは、リラックスして、周囲の状況までわかるぐらいの状態の方がベストなのだ。
集中しているように見えるのは、実は頭の中だけで、脳内から他の邪魔な要素をなくそうとする作業にしか過ぎない。
リラックスはその逆で、頭だけではなくて、五感全てが解放されて、人間が本来持つ全ての感覚の上でそこに存在できる状態だ。
テニスの錦織選手ぐらいになってくると、そのリラックス状態を、むしろ集中している状態と口にしたりする。
五感の感覚が全て開いていないと、出来ない競技だからこそ、そういうことがわかるのだろう。

まして舞台ではなく映像であれば、不自然さは際立ってしまうだろうと思う。
日常生活レベルで考えれば、当然、同時に様々な事を考えている状態こそ、正しい。
会話であれば、自分が次に何を話したいか。相手が何を言ってくるかの予測、それとは別に心配な事、お腹すいたなぁ。などなど。
そういう様々な事が同時進行で身体感覚の中にあればあるほど、自然という事になる。
人は、複雑なのだ。
だから、一方では情熱的な演技をしながら、他方で冷静に自分を管理するというのは、間違っていない。
ベテランの俳優ほど、現場ではリラックスして、状況が見えているはずだ。
場合によってはスタッフさんより先に、ここ右手で鞄持たないと繋がらないよね?ぐらい言える俳優だっているはずだ。

つまり。
いっぱいいっぱいに、なるなよ。ってことだ。
色々あるから、準備しようぜというのは、すでに稽古なのだ。
芝居の方でいっぱいいっぱいになっていたら、確かに小道具や衣装で不備が出る。
でも、不備が出る以前に、その芝居で良いのか?って話だろってことだ。
舞台ではバレない、いっぱいいっぱいが、全部スクリーンに出ちゃうぜって話だ。

9月に入る。
より具体的になっていく。
それは、確実に映画に向かっていく覚悟の問題になってくる。
単純にやってやる!みたいなことではない。
具体的な覚悟だ。
10月に入るころには、もっと強い自信をもっていなくちゃいけない。
そして、そういう稽古をきっと、今まで積み上げて来てあるんだなぁと改めて思う。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:11| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする