監督が来る前にいつもの合わせ稽古をしていた時の事だ。
1~2人が、そのシーンについて意見を言い出した。
そのまま、それは輪になって、何人かでのディスカッションが始まった。
それが、反省会なんかでは見かけても稽古場で全員の前でというのは見たことがないメンバーだった。
それぞれ皆が、もっと良くなる。もっと良くしたいという思いを持ったという事だ。
意見を言われている役者は役者で自分のプランを持ち込んでいる。
持ち込んでいる自信だってあるはずだ。
そういう仲間に何かをいう事は簡単なようで簡単じゃない。
はっきり言えば、俳優同志のディスカッションで、芝居の答えが出ることなんか少ない。
具体的な、例えば、そこは二拍だけ間を作ってからセリフ言ってくれない?とかならもちろん出来る。
でも、役作りであったり、芝居のプランであったりは、役者同士であるほど、伝わりにくい。
伝える側だって、自分の希望を伝えるだけになってしまう。
監督や演出家が希望を言うのとは、立ち位置が違うのだ。
それでも、その結果、何かが変わることがある。
そこで答えが出なくても、それをキッカケに何かを探したり、何かを見つけることもある。
だから、それを無駄だなんて思わない。
そんなことよりも、そこでお互いが自分の事のように思い合う姿こそが大事だと思った。
自分は自分。自分の役に集中。役者はそうなりがちだ。
大御所の大ベテランになれば、人に何かを言う説得力だって余裕だってある。
でも、役者は大抵、自分の芝居にだって四苦八苦しているのだから、人に何か言うのは棚に何かをあげなくちゃいけない。
そこで、その役者の芝居を、自分の事のように感じていることは、そのメンバーに関しては大きな一歩だったって思う。
なぜならそれは同時に、自分が言われたって受け入れることが出来るキッカケになるからだ。
人に何かをいう時の苦しみは、逆に人に何かを言われるときに初めて深い理解になる。
監督が到着して、稽古が進む。
最終稿は想定以上に進んでいる。
稽古もどんどん進んでいった。
途中、撮影が動く場合の立ち位置などの話も出た。
どんどん、シナリオが難しくなっている。
通常の映画のようにキャスティングして寄せ集めでという形では、撮影期間がどれだけ必要なんだというレベルだ。
前後のシーンやタイミングを把握しないと、ついていくことすら不可能だ。
とにかく、通常の映画なら切れるところでも芝居が継続していく。
誰かが間違えれば最初からやり直しになってしまうようなシーンづくり。
おいらは死ぬほど映画を観ているってわけじゃないけれど。
この映画撮影方法が斬新であることだけはわかる。
もちろん、実際の撮影に入ったら、カット割りをする部分もあるかもしれない。
あるかもしれないけれど、全てのシーンでカット割りしなくても撮影できる準備をしているのだ。
次から次へと芝居を創っていく。
皆は気付いているだろうか?
18年間の貯金が、今、ものすごく効いていることを。
出来てしまうのではなく、出来るようにいつの間にか成長していたことを。
おいらはおいらで、代役を何役もやる。
自分のシーンがなくても、役者としてのレベルアップは出来るからだ。
ほんの小さな間をどう使うか。
目と目を合わせる時間間隔をどうやって持つか。
不自然じゃなくそこにただ存在することが出来るのか。
やれることは山のようにあって、それを全て自分の血肉にしていく。
稽古後、キャスティング決定後の決起会に向かう。
帰る予定だった監督が1時間だけ行くかと、来てくださる。
そこから、芝居の話が、お開きまで延々と3時間。
監督の映画との出会いの話まで、聞くことになる。
初耳の話もあるし、役者も聞きたい自分の芝居の話をどんどん聞く。
監督は監督で、今、俳優が感じている不安な部分などを知って、へえ!というリアクションまである。
ここで話した内容は、全て、作品に投入される、思想になりうる。
こう出来たら、勝負になるぜ。
その答えまでとは言わないまでも、その目指す地平ぐらいは、確実に見えたはずだ。
監督が頭の中に描いている映像をまた一歩深く共有できた。
役者は主観だ。
だから客観の演出家や監督の言葉を100%理解することは不可能だという。
30%でも理解できる役者は、あいつはよくわかってくれる役者だと言われる。その程度だ。
じゃあ、残りの70%は全てダメなのか?と聞かれたらそうではない。
残りの70%にいつも期待しているという監督の言葉は、強く優しく、自信になる言葉だった。
帰りの電車で白河夜船。
駅に着くと、細かい雨が降っている。
大きな台風が迫っている。
8月の終わりだというのに、まだ10号。
細かい雨粒を受けながら。
嵐の前の静けさを感じていた。