もし日本映画が世界のマーケットでは停滞しているのだとして。
その打開方法を聞かれたら、なんて答えるだろうか?
色々と観ていれば、例えば国の助成金の問題であるとか。
若手映画監督が活躍できる場を増やすことだとか、様々な人が様々に回答している。
そのどの話も納得できるし、恐らく間違っていないし、とても勉強になる。
そして、どの人も皆、とても映画という表現方法を愛している。
リオ五輪の閉会式の日本のプレゼンを観て、おいらは、とても感動した。
あの映像、その後のダンス、全てが世界を驚かせていた。
実際に会場にいた人たちが、閉会式で一番の盛り上がりを見せたと言っている。
世界中の新聞が、絶賛している。
批判しているのは、精々日本の一部だけだ。しかも政治的な理由で。
レインボーブリッジを高跳び選手が越えていったり、次から次へと、スポーツと東京を表現していた。
ドラえもんやキティちゃんやマリオ、翼君などの日本のコンテンツも登場した。
どのカットも、一瞬と言えるようなあっという間の時間だったのに印象的だった。
おいらが、何よりも素晴らしいと思ったのは、日本の若いクリエイターを登用したことだ。
これまで、こういう場には大抵、大御所と言えるような人が演出家として君臨していたように思う。
確かに世界的にも著名な大御所が日本人にもたくさんいるけれど、その何倍も良かった。
やっぱり、若いクリエイターは、現代を捉える力が、感覚的に何歩も先を行くからだ。
CMを観ても、音楽PVを観ても、或いはゲームでも良いけれど。
今の若い映像クリエイター達は、とんでもない作品をたくさん発表している。
世界に通用するようなクリエイターは山のようにいて、凄いなぁと思う。
だから、前述された質問をもし、おいらが受けたら、回答は既に決まっている。
日本映画が世界のマーケットで更に評価されていくのだとすればその方法は一つしかないと思う。
才能が豊かな映画監督は、山のようにいるように思うからだ。
もちろん、資金的な問題などは様々にあるだろうけれど、それが一番の問題とも言えない。
アジアではもっと資金が少なくても、世界にとどろくような作品が生まれているのだから。
おいらが、思うのは、やはり、俳優だと思う。
これは、恐らくだけれど、今、俳優をやっている人だったら誰だって頷くんじゃないだろうか。
もちろん、おいらから見れば、すげえなぁって役者は、もちろんたくさんいるのだけれど。
すげえけど、そのすげさを完全に映画で発揮出来ないんじゃないかなぁと思っている。
これまで評価されてきた映画監督は、必ずと言っていいほど、パートナー的な俳優を見つけ出している。
黒澤監督なら三船敏郎さんや志村喬さん、小津監督なら笠智衆さんや原節子さん。
監督の作品を深く理解し、監督はその俳優の持ち味を深く理解し、最高のタッグパートナーになっている。
恐らく映画監督にとって、その出会いは、もっとも大きな出会いの一つだったはずだ。
漫画だって、手塚漫画のひげおやじや、松本零士さんのハーロックとトチロー。名優は必ず名作に出演する。
その出会いがオーディションなのか、たまたま何かを観てなのか、舞台に足を運んでみつけたのか。
それは様々なのだと思う。
三船さんにしても笠さんにしても、見つけられた時に売れっ子だったわけではない。
やはり、監督がこいつとなら、すごい作品を創れると確信する何かがあったのだと思う。
もちろん、現代の映画を観ても、あの監督の作品には、あの人がよく出演している・・・ということはよくある。
ただかつての、映画監督と俳優の関係性にはとても及んでいないんじゃないかと思える。
恐らく、深い関係性じゃなくても、監督と俳優のディスカッションはどんな作品でもあるし、真剣な筈だ。
それなのに、やっぱり、及んでいないように思えるのは何故なのだろう?
おいらは、多分それは、恋のようなものなんじゃないかって思っている。
お互いがお互いを勝手に理解した気になって、思い入れて、熱くなっている。
そういう関係性だったんじゃないかなぁって、勝手な想像をしている。
作品の軸であったり、その作品を運ぶ役割であったりを任せられる俳優って、中々、どの監督もいないと思う。
きっと彼ならやってくれるという希望も入ってのキャスティングだろう。
まして、動員に関わる人気であるとか、スポンサーであるとか、様々な要素がキャスティングには入っていく。
映画という作品を創るにあたっての、恋人のような存在を創るのもきっとやりづらいだろうと思う。
だから、俳優なのだ。選ぶ側ではなくて、選ばれる側なのだ。
日本映画を変えるとすれば、やっぱり俳優なんじゃないかって思うのだ。
俳優が、その映画監督に出会えるかどうか。
いや、出会っていることに気付けるのかどうかなんじゃないかって思っている。
劇団では、台本を書く時に、当て書きも多い。
その俳優をイメージして台本が書かれているのだ。
シナリオを書いてからキャスティングする映画とはそこが違う。
確かに劇団なんてとても小さいコミュニティだけれど、創作のゼロの地点から、全てが見えている。
だからこそ生まれる信頼であるとか、思い入れがある。希望がある。
きっと、映画でもそういうことが出来るようになれば、劇的に世界で評価されるようになるだろうなって考えている。
セブンガールズという映画は、そういう一歩目を踏んでいる。
そして、勝手ながらおいらは、デビッド・宮原の作品を一番自分が表現してきたと思っている。
物語の軸も、物語を運ぶ役割も、今までずっとやってきた。
もちろん、こんなのは勝手な片思いと言われても仕方がない事だ。
監督からすれば他にいないからおいらにやらせただけかもしれないのだから。
劇団員の何人もが思っているだろうし、おいらはおいらで、自分が一番なんだって思うだけだ。
でも、監督がおいらという俳優を深く理解してくれていると確信しているし。
おいらはおいらで、監督が本来持っている、従来の枠にはまらないような感覚を知っているつもりだ。
時には、言い合いをしているように見る仲間もいるけれど、信頼があるからこそだ。
どの俳優よりも、おいらはデビッド・宮原という監督を信頼している。
映画製作に関わっているけれど。
おいらがするべき一番の仕事は決まっている。
デビッド・宮原の作品性を、誰よりも知っている俳優として、この作品で演じることだ。
それは、この作品をすごいものにするってことだ。自分の芝居で。
絶対に他の誰にも出来ない代替えの利かない芝居をするって事だ。
ここだけは、小野寺じゃないとどうにもならないっていう芝居だ。
どうだ!すごい監督だろう!と知らしめるような芝居だ。
そういう俳優がいないと、世界で勝負なんかできるわけがない。