台風がものすごいことになっている。
現時点で日本近海に3つの台風。
9号、10号、11号と3つもあるのに、最初に上陸するのは11号。
10号は、普段見ないような西への針路をとり、9号はこれから二つを追うように北に進むそうだ。
各地で、深刻な被害もある。
飛行機、船、電車と交通機関にも大きな影響。
エルニーニョの終わりの年。
先日、台風が生まれるテンポが速くなるとここに書いたばかりだけれど、これほどとは思わなかった。
台風は熱帯低気圧の中心の気圧が更に低い塊だ。
おいらの目には地球規模のエネルギーの塊に見える。
凄いのは、自然においらなんかは、強烈な低気圧が近づくと、体調が変わる。
やけに眠くなったり、それを我慢すると、頭痛になったりする。
気圧と頭痛の関連性はまだ認められていないらしいけれど、おいらだけではないから、あると思う。
少なくても、哺乳類は嵐がやってくると、体を丸めて眠りやりすごす。
人間だって哺乳類なのだから、嵐の中、自然と体調が変わるのは当たり前の事のように思う。
先週の衣装合わせの稽古じゃなくて良かった。
大きなスーツケースを引いてくる女優がとても多かった。
明日は、どの程度の雨なのか。
想像もつかない。
帰りの電車にも影響が出るのかな?
明日の稽古では、美術を気にした稽古を出来るだろうか?
撮影のアングルや、美術打ち合わせがないと、実際にはそのセットのどこで撮影するかなどは決定しない。
ただ俳優にとってのアクティングエリアがついに見えたということになる。
パンパン小屋外部までになると難しいけれど、少なくても内部は稽古場の広さで確保できる気がしている。
恐らく監督は既に最終稿に着手していると思う。
最終稿では、アクティングエリアをどう利用するかも折り込まれているはずだ。
それが全てあがってからになると相当演出時期が遅れてしまう部分が出てくる。
撮影の段取りを考えれば、出来ること、出来ない事、やるしかない。
役者は一歩分のスペースが変わるだけで、芝居が変わると言われる。
一歩変われば、まず、左足、右足、どっちが前にあるかが変わるからね。
体の向きだって変わるし、相手の見え方だって変わってしまう。
十代の頃、ほんの小さなことで役者の感覚が変わるから、綿密に稽古しなさいと教わった。
稽古場にはテープでミリ単位で線を引き、ここは何歩前に出て、どのタイミングでセリフを言う。
そういう所まで稽古したのを記憶している。
舞台というお客様の前に立つ以上、入念に計算しつくさなければいけない。
でも、実際の舞台は違う。
本番はまるで変ってしまう。
入念に稽古してきたのに、大道具を置いてみたら、サイズが違っていたという事もある。
そこに立つつもりが、照明が置かれていたなんてこともある。
相手役が緊張感で、いつもと違う間合いになっている場合もある。
お客様がたくさんいらっしゃって、追加席を出した結果、舞台そのものが狭くなる場合だってある。
そもそも、稽古場ではなかった壁がそこにあるから、稽古場のようにギリギリの位置に立つことなんて出来なかったりもする。
だから、小屋入りすれば、それまでに固めたものを更にリセットされることなんかよくあることだ。
まして、稽古場で決めていた段取りは、小屋入りすると一気に3倍ぐらいの量に増える。
誰それの小道具を、この暗転で片付けてほしいとか、自分の小道具の置き場所をここからここに移動とか。
小屋入りしたとたんに、それまで稽古で準備していた以上の段取りが、どんどん増えていくのだ。
対応力が、あるかないかで、役者は変わる。
舞台で、初日に必ず緊張してしまう役者は、大抵、その対応力がない役者が多い。
初めての感覚に対応できないから、緊張してしまうのだ。
当然、撮影でも、その場その場で変化することはあるはずだ。
時間的な制約があるから、何度も演じることはもちろんできないけれど。
稽古場でどんなに固めても、カメラアングル的に、もっと近づいてくださいと、その場で言われたりもするはずだ。
或いは、日常会話の声のボリュームで稽古をしていても、マイク感度的にもっと声が欲しいと言われるかもしれない。
美術的に、何もない部屋なわけがなく、当然、稽古場にないような高さのものが置かれていたりもする。
その場で、ごめん、そこ、お茶飲みながらにして!と監督指示が入るかもしれない。
助監督から、絵的に動いている人が欲しいと提案があれば、監督が取り入れるかもしれない。
お客様の前じゃないのだから、どんどんその場で良くしていくことが出来る。
ただ、時間だけが足りないのだから、どんどん、その場で対応していかなくちゃいけない。
対応力が絶対的に必要になってくる。
今、稽古をしていて何よりも思うのは。
監督からの要望に、その場で変わる役者と、あまり外から見ても変わって見えない役者がいることだ。
その違いについては、やっぱりちゃんと考えていかなくちゃいけない。
シンプルに監督の要望の理解力の問題だけではない。
引き出しの数かも知れないし、もっと、根本的な部分かも知れない。
一番厄介なのは、自意識の問題だ。
自意識みたいなものが邪魔をしている役者は、本当に何も変わってないように見える。
役の意識だけがそこに必要なわけで、自意識が邪魔をしている俳優はそこを壊さなくちゃいけない。
それは、簡単な事じゃないけど、当然のコトな筈だ。
禅問答に近いやり取りを、自身の中で完結していなくてはいけない。
明日、稽古場に着いたら、撮影場所の説明をしよう。
ばみっても、その線を踏んで芝居してしまうような感覚の俳優も出てくるかもしれない。
今から意識できるように、少しでも手を付けていくべきだ。
俳優側でやれること全てをやっておくことは、最低限のスタッフさんへの礼儀だと思っているからだ。
その場で、俳優が必要とする時間を極力、自分たちで準備しておく。
撮影やセットチェンジなどのテクニカルに必要な時間をおいらたちで、確保していくしかない。
舞台とは違う。
裏導線はない。
楽屋までの道もない。
客席もないし、上手も下手もない。
天井には照明ではなく、天井がある。
ただそこに空間があることを明日、理解してもらわなくてはいけない。