2016年08月20日

敗北と謝罪

吉田沙保里選手一色だった。
霊長類最強女子なんて言われたギネスブックにも認定されるほどの絶対王者。
それが五輪という大舞台のしかも決勝で敗れたのだから世界中が驚いた。
あれほど敗北を想像できない選手はどこにもいなかった。

Yahoo!ニュースの見出しは、ポータルサイトだから各新聞記事の見出しだったり、それを短縮したものだ。
「吉田沙保里、負けてしまって、すみません」
この見出しを目にした時に、何とも言えない怒りが込み上げた。
確かに、インタビューでも謝罪していたけれど、そこを見出しにするのかと。
なんというか、人間的にどうかと思う。
日本人の民度は高いなんて、何かあるたびに見かけるけれど、全く持ってレベルが低い。
会場にいたブラジル国民たちのスタンディングオベーションを見た。
民度が高いとは、ああゆう事を言う。

もちろん、記事の内容は敗北を責めるようなものではなかった。
どこにも、誰も、敗北を責める人なんかいるわけがないのだ。
少なくても3大会も金メダルをとり、肉体的な全盛期を越えた今も、世界で第2位の成績を収めた。
16年間、チャンピオンであり続けた。
これほどまでの偉業を責めることが出来るわけがない。

卓球の福原愛選手の時もそうだった。
バレーボールの木村沙織選手もそうだった。
敗北した後のインタビューで、謝罪の言葉を口にしていた。
応援してくださった皆様の期待に応えることが出来なくて・・・・
日本人選手はいつもそうだ。
負けると、謝罪してしまう。
きっと、これは、日本人の持っている倫理観に根差している。
儒教的な発想が、結局謝罪に向かっていく。
江戸時代の切腹からそれは何も変わっていない。

日本では何度も目にしているから当たり前に思うかもしれないけれど、全然当たり前じゃない。
ブラジルW杯で、地元開催で優勝候補のブラジル代表がドイツに歴史的大敗をした時、誰が謝罪しただろう?
どんなに期待を背負っても、国の代表でも、全力を尽くした選手が謝罪するなんてことはない。
悔しいという気持ちが涙になったり、怒りになっても、謝罪という方向にはいかない。
精一杯やって敗れたのだとすれば、それは、相手が優れていたのであって、選手の責任ではないからだ。
だから、世界から見たら、選手が国民に謝る姿は、異常だという事になる。
どうして、そんなに簡単に謝るんだろう?と不思議に思う海外の人はとても多いだろう。

記憶にあるはずだ。
誰だって、子供の頃、ちゃんと謝りなさいと誰かに言われた筈だ。
徹底的に、謝罪について仕込まれる。
ちょっとしたミスだけでも、謝れと教え込まれる。
そして、それが礼儀であり、礼節だと言う。
そもそも、それがなぜ礼なのか、考えている人なんか実はほとんどいないのにだ。
形式としての謝罪は、同時に、子供たちに「建て前」を教育している事すら気付いていない親もいる。

だから、アイドルがスキャンダル問題で、坊主頭になる。
不倫をすれば、結婚相手ではなく、国民に謝罪会見を開く。
謝罪会見だと思っていたら、弁解会見だったときには、徹底的に叩く。
国民的アイドルグループの解散が報じられれば、真っ黒な服で視聴者に頭を下げさせる。
議員が問題を起こせば、秘書が首を括る。
とにかく、代理でも何でもいいから誰かが謝罪をしないと、収まらない。
そのたびごとに、一体、何に謝っているのか?という論議が出る。
実際にクレームを入れているのは何人なんだよ?という話も出る。

この儒教的な倫理観はいつかなくなるだろうか?
おいらにはとても窮屈にも思えるけれど。
この考え方は、たくさんの「美徳」も持っている。
切腹なんかバカバカしいけれど。
どこか、その潔さに感服してしまう自分がおいらの中にもいるのだ。
武士的な何か、日本人的な何か、儒教的な何か。
捨て去るには惜しいし、持ち続けるには無意識すぎる。

敗北と謝罪。

戦後71年。
日本は、敗戦後、謝罪を続けてきた。
首相談話で、子供たちにまで残してはいけないとの言葉が出たけれど。
謝罪はこれからも続くだろう。
国民に対しても、国外に向かっても。
やはり、それが日本人だ。

だが、日本人にはあまり知られていないもう一つの本質的な観念がある。
何もかも受容する、したたかさを持っていることだ。
儒教ですら、遥か大昔に朝鮮半島からやってきた学問に過ぎない。
仏教も儒教も、キリスト教も、蒸気機関も、造船技術も、飛行機開発も。民主主義すら。
理解して、自分のものにしていく。アレンジさえ加えていく。
本質的に貪欲で、好奇心にあふれていて、受容的なのだ。
そのままではいけないから、儒教的な教育で、表層を作ったという事だ。
建て前が儒教で、本音が貪欲という事だ。
だからこそ、この国は植民地になることもなく、経済的にも発展できた。

パンパンは、日本人の本音の塊だ。
謝罪で、腹は膨れない。
GHQに石を投げても、意味がない。
だったら、あいつらから稼いでやる。
アメリカ文化だって、なんだって取り入れてやる。
生き抜いてやる。

敗北直後の、むき出しの日本人だ。
儒教的な発想で言えば、絶対にこうあってはいけない側の日本人だ。

本音で生きようぜなんて簡単に言う人もいる。
敗北に謝罪する選手がいる。
芸能人の不倫会見に溜飲を下げる人がいる。
不倫会見なんてしなくても良いけど、しないと納得しない人がいるんだなと、自分を納得させる人もいる。
そのどれもが日本人的で、客観的角度から表現すれば、どれも滑稽な姿だろう。

敗北とは何か。
謝罪なんかでは誤魔化せない本質が、セブンガールズの中にある。
それだけは、自信がある。


負けてはいけないというプレッシャーから解放された吉田選手は、今、何を思っているだろう。
謝罪を終えて、時間を置いて。
悔しい気持ち、悲しい気持ちだけだろうか?
インタビュアーは、謝罪の言葉なんか引き出さないでいいよ。
彼女が謝る必要なんか、ひとかけらもないんだから。
おいらの目には、彼女は、敗北すら美しいと思うよ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:32| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする