人は環境に順応する。
厳しい環境にも耐えられるようにする重要な機能だ。
でも、逆を言えば、厳しくない環境にもすぐに慣れてしまう。
自分が恵まれているなんて、すぐに、忘れてしまう。
今、窓の外は、台風7号が運んできた風と雨が轟轟と吹き荒れている。
おいらは、部屋の中で、屋根の下で、台風が過ぎるのを待つだけだ。
青空教室という言葉を知っているだろうか?
焼野原の中、学び舎も焼けてしまっているのに、子供たちは通学したのだ。
青空の下、椅子だけ並べて、勉強をしたという。
今だったら休学になったり、どの親も学校に行かせないのではないだろうか。
子供がどんなに嫌がっても、学校に行くことは子供の仕事だった。
熱があろうが、弁当がなかろうが、学校に行きなさいという親は多かった。
おいらが子供の頃も、37度ぐらいじゃ、学校を休ませては貰えなかった。
そういう時代の違いがあるとしても、青空教室なんて言葉が残るのは、ちょっと驚く。
屋根がなくて、空の下で勉強なんて・・・。
もちろん、子供だけではない。
他に残っている言葉で「青天井」なんて言葉もある。
もう空を天井だって言い切ってしまう。
今では、制限なしみたいな意味で使われるけれど。
元々、屋根がないことを開き直った言葉だ。
焼野原になったのは、終戦後ではない。
戦時中に東京大空襲は始まったからだ。
1944年11月から、終戦の1945年8月まで続いた。
軍事施設から、ハッキリと、市街地を目標に切り替えている。
空襲があるたびに、数千戸という単位で、家がなくなっていった。
爆撃だけではなくて、焼夷弾で、火事が起きるという事も大きかった。
焼夷弾という武器は、軍事施設よりも市街地爆撃を始めから目的に創られた武器だ。
焼野原になって、誰もが最初にやったことは、雨露をしのぐことと。
冬に始まり、梅雨があり、炎天下があり、台風の季節に終戦を迎えた。
終戦になると同時に、配給が止まり、信じられないようなインフレがやってくる。
預金は封鎖され、手持ちのお金も価値が落ちてしまい野菜一つ買えない。
値段が高いだけではなくて、物の数も揃っていなかった。
空襲の被害者の数も甚大だけど、終戦後の餓死者の数も、それに並ぶという説があるぐらいだ。
71年前の今日、終戦の二日後、急遽千円紙幣が発行された。
それまでと、敗戦以降では、使用する通貨の単位が変わった。
百円札が小銭としてしか使えなくなった。
今、台風の中。安全な屋根の下にいて。
セブンガールズという作品に取り組みながら、想像でしか埋められぬ余りの違いに愕然とする。
この前提をまず自分の体に叩き込まないと、役作りもくそもない。
生きることに夢中で、あの頃の事はよく覚えてない。
そんな言葉を色々な人から聞いた。
生きることに夢中にならないと、そもそもが芝居にならない。
そういう限界の状況下で、人間らしさや、そいつの本質が出てくる。
そういう状況に追い込まないといけない。
去年の今頃。
実は舞台のセブンガールズの稽古をしていたことを思い出す。
あの頃、今のこの環境なんて想像出来なかったはずだ。
小劇場に向かって、この作品を好きだと言ってくださるお客様がいるプレッシャーと戦っていた。
去年の環境の中で、苦しんでいた。
それが、信じられないことに映画にすることになった。
決まった時、ある役者は、俺は1シーンだけでもいいよ。全力を尽くす!と口にした。
あの頃の環境では、映画に実際に自分たちの作品で出演するということが実感できていなかった。
今、キャスティングも終わって、この環境の中で、忘れがちな事だ。
映画で思い切り芝居が出来ることが、去年に比べてどれだけ恵まれているか。
今まで積み上げてきたものを総決算できる場を頂いたことがどれだけ尊い事か。
もう一度、噛みしめなくちゃいけない。
環境に慣れるな。
常に、今、自分の立つ場所を見るべきだ。
環境なんて言うのは実は幻に過ぎない。
昨日と今日とはまったく違う一日なのだ。
状況なんて刻一刻と変化し続けるのだ。
誰が映画化を想像した?
誰が焼野原を想像した?
その日を生きるんだ。
明日、青天井で寝るかもしれない。
世の中、何が起きるかなんてわからないさ。
環境に慣れることはきっと、人間の持つ防衛本能に過ぎない。
それが当たり前だと感じるだけで、精神的な余裕が出来るだけだ。
だけど、防衛なんかしないで良い。
生のままの自分でいれば良い。
傷つく時は、大きく傷つくけれど。
今はそれでいい。