朝から、体操、サッカー、卓球、水泳、バレーボールと立て続けに観ている。
どの試合も素晴らしく、甲乙つけがたいほどの感動に満ち溢れている。
生活の全てを競技につぎ込んだ選手たちの美しさは、国境を越えている。
敵味方、試合後に抱き合うその姿に美意識を見る。
サッカーA代表のハリルホジッチ監督が、日本人は相手選手をリスペクトし過ぎると言っていたけれど。
それは、それで、素晴らしい国民性じゃないかと改めて思う。
様々な競技を横断しながら、思う事がある。
卓球や柔道、テニスは、相手選手との個人の戦いだ。
サッカーやバレーボールは、相手チームとの団体の戦いだ。
体操や水泳は、相手のいない自分自身との戦いだ。
相手を叩き潰してやるというようなタイプの選手は日本人には少ない。
相手がいても、自分との戦いをしている選手も少なくない。
自分が最高の状態であれば、相手がだれであれ勝てるというような精神性だ。
自然災害が多く、四季がある日本人は、忍耐という精神力の武器を持っているんだなぁと思う。
柔道選手は道の精神が強く出ていて、特に自らと戦っているのが解る。
団体競技の中にも、個人の局面がある。
個人競技でも、トレーナーやスタッフなど、チームでの局面がある。
実はどちらの競技にも、どちらの局面を内包していて、それが試合を左右することが多いように見える。
個人競技でメダルをとるような選手のスタッフチームの雰囲気は、いつも間違いなく良いからだ。
これは、とても大事なことで、個人を支える団体があって、或いは、団体を引っ張る個人があるという事だ。
そのどれも間違っていないのは、「誰と戦うか」がはっきりしていることだと思う。
相手に向いているのか、自分に向いているのか、ハッキリしている。
選手が自分自身との戦いをしているときに、相手を飲もうとするバックアップがいてもちぐはぐになる。
そういうことまで、放送には映ってしまうのが凄いと思う。
やっぱり全員が同じ方向を見ていると強いのがはっきりとわかる。
芝居も、実は、その全てが当てはまって、今回の五輪にはとても多くの事を学ばせてもらっている。
役者をやっていれば、当然、自分自身で打開しなくてはいけない局面がやってくる。
一人のシーンもあるし、独白(モノローグ)もある。
相手役がいれば、相手役とのコンビネーションもある。関係性もある。
大勢のシーンであれば、当然、チームプレイが必要になってくる。
そもそも舞台でも映像でもスタッフさんを含めた、プロジェクトそのものへのチームの方向性もある。
それに、お客様との向き合いも加味される。
芝居をしていて面白いなぁと思うのは、個人の資質というのが面白いほど出ることだ。
他者とのコミュニケーションが苦手な俳優は、芝居でも苦手で、コンビでもチームでも苦手だったりする。
相手へのパスを出せなかったり、受け取れなかったりするのは、実は普段の資質とも関係している。
逆に周りを気にしすぎる俳優は、個のプレイをうまく乗り切れないことがある。
どちらにも一長一短はあるけれど、ここは実は無視してはいけない。
何故なら、得意不得意に関わらず、こればかりは、どちらも必要なものだからだ。
不得意であるなら、克服することを目指さなくてはいけない。
自分は、苦手だから得意な方を伸ばそうでは、絶対に限界が来るのがこの部分だ。
技術的な得手不得手は、それぞれ、切り捨てることを選ぶことが出来るけれど。
これだけは、切り捨てることが出来ない要素だ。
それはスポーツを見ていてもわかるし、芝居を観ていてもわかる。
セブンガールズは、多くの登場人物が登場する作品だ。
単独の主役というのはいなくて、群像劇だ。
何人かの娼婦が登場して、それぞれにエピソードがある。
どのエピソードも大事だけれど、その実、本当に大事なのはエピソードではなくて、娼婦同士の関係性だ。
例えば撮影した結果どうしても時間的な間尺が長くなって何らかのエピソードをカットしたとしてもこの作品は成立する。
そのパンパン小屋にいた娼婦たち。というイメージこそが重要だ。
だからどれかのエピソードがやけに目立ってもおかしくなってしまうし、ぶれてしまう。
そういう風にシナリオも書かれていないし、自分以外のエピソードの時にどんな風に存在するかが大事な作品になる。
おいらは、男の俳優だから、それが特によく見える。
男達は、それぞれのエピソードにしか関わることが出来ない。
全体を通した空気感や、作品の持つテーマは、娼婦たちが創り上げていく。
男は、それぞれのエピソードのどれかに関わっているだけなのだ。
だから、そのエピソードを強く打ち出したくなりそうなものだけど・・・。
でも、実際はそうじゃなくて、この作品でこのエピソードがどんな役割を持っているのか。
それをちゃんと自分の仕事として、成立させようと考える。
全体の一部として、自分が受け持つエピソードを考えていく。
自分を通して、相手役の娼婦がより見えるような芝居をしなくてはいけない。
自分のエピソードではなくて、娼婦のエピソードに自分が存在していることを理解しなくてはいけない。
だからこそ、余計に、自分の関わらないエピソードも観て、全体が観えていく。
個を殺すという事ではないけれど。
いや、むしろ、個を発揮していかなくては成立しないのだけれど。
やはり、団体で作品を構築していかないといけないんじゃないかと思う。
個の局面があることは、今日までの稽古で良く分かった。
その局面を自分の物にしていかなくちゃいけない。
でも、あくまでも局面だ。
オリンピックの選手たちは誰と戦っているのだろう?
相手選手?自分自身?
それは、観ているうちに少しずつ分かってくる。
個人競技?団体競技?その境界線はどこにあるの?
得手不得手ではない。
避けては通れない。
選手たちは、逃げずに立ち向かってきたはずだ。
必要不可欠なものだ。
選手たちと同じように。
自分自身と向き合わないと嘘だ。
そこから逃げるような人間にだけはなりたくない。