2016年08月04日

わかっていたけど、もっと、わかった

シナリオの内容をどれだけ理解しようとしても結局は作家には勝てない。
それは当たり前だ。
作家の頭の中から出てきた物語や言葉たちを、読むことで理解しようとするのだから。
それには限界がある。

ただそれでも、シナリオを何度も返して読まなくてはいけない。
読むごとに発見があるわけで、つまりはそこまで理解が届いていないからだ。
シーンごとの持つ意味だとか、セリフがどこにかかっているだとか。
作家にしかわからないこともたくさんあるけれど、読めばそれを発見できる。
それに、作家にしかわからないこともたくさんあるけれど、他者だから見えるところも出てくる。
単純に同じ日に同じ客がパンパン小屋に来ていないかとか、室外に出たものが室内に登場していないかとか。
一人称が「わたし」だったのに、後半は「あたし」になっていたとか。
作家が作品世界に没頭して筆を走らせている間に生まれた小さな矛盾を見つけたりも出来る。

海外では、大学の専攻科目に、「シェイクスピア」があるのをご存じだろうか。
西欧ではそれほど演劇が生活に密着していたり、歴史を持っているからというのもあるけれども。
それだけではなくて、シェイクスピアという中世の作家が、既に物語のパターンは全て構築したと言われているからでもある。
今でも、シェイクスピア研究は続けられていて、物語の構造、パターンは日々解析されている。
愛情、裏切り、嫉妬、怨念、ありとあらゆる情念で、物語が展開していく。
これほどの物語のパターンを数多く生み出した理由は未だに謎が多いらしい。
一説によるとシェイクスピアは個人ではなくて、グループだったという説もあるという。
物語構造。人が感動する法則。人が物語に熱中する法則。そういうものの原点が詰まっているのだそうだ。

ハリウッドでも、物語構造の研究は日々されている。
どういう要素が物語に必要であるのか、何が人の興味を引くのか。
もちろん、メッセージ性やテーマが軸にあったうえで、物語の転換を詳細に調べている。
聞いた話だと、物語世界の説明部分の序盤は何分までにとか、どんでん返しは何分ぐらいにとか。
そんな細かい部分まで、研究されていて、映画会社にはそのチームがあると聞いた。
全てのシナリオは、映画化前にそのチームから、アドヴァイスを受けることになるそうだ。
実際にはそのチームを通っていないシナリオもあると思うのだけれど、ヒットの法則のようなものを探しているのは理解できる。
一つのシナリオに添付される設定資料は、数冊の本になる場合も普通の事なのだそうだ。

そういう本格的な研究に比較したら、おいらが個人的に繰り返しシナリオを読むことなんて、子供の遊びみたいなものだろう。
そんなことはわかっているし、仮に何かを思っても、助言なんかしない。
作家の頭の中で生まれたもので、自分の理解が及ばない部分がある以上、出来ない。
だから、そんなことは無駄なのかなぁと思う時もあるけれど、それでも、やはり読む。

じゃあ、なんでだよ?と聞かれた時に。
結局、シナリオの解析とか、役者としての理解だとか、物語世界の把握だとか。
そんなことでもないのかもしれないなと、思い始めた。
もちろん、それが基本なのだけれど、それとは全然違う基軸で。

「セブンガールズ」はこれまで4公演も舞台を重ねてきた。
そのたびごとにシナリオには改訂がなされ、それを4度共に本番前に直している。
今回、その最新の上演台本から、映画のシナリオを起こし、更にほぼ全てのシーンに改訂が入った第二稿が出来た。
シナリオを書くだけで、もうすでに普通の映画の3~4本分の分量を書き下ろしている。
それは、おいらからすれば驚異的な事で、難解な事だと思う。
全てを理解することが不可能だとしても、そうやって書かれたシナリオをなんとなく読むことは失礼だと思ってしまう。
まぁ、自分が古いタイプの演劇人だからというのも強いかもしれないけれど、作家先生へのリスペクトを大事にしたいのだ。
膨大な時間と、膨大な思考とを持って書かれたシナリオに対して出来る精一杯の事をしなくてはと思うのだ。

シナリオの理解だけじゃなくて、リスペクトが実は自分の中心にあるんだなぁと思った時。
他の視点も、どんどん、見えてきた。
デビッド・宮原も同じだ。
この分量を、この時間を、この思考を。
デビッド・宮原は、自分の為にやっているわけではない。
多くの支援してくださった皆様への思いに応えるために。
出演する役者たちの熱意の為に。
実際に足を運んで観てくださる観覧客様の為に。
そうやって、誰かのためを思っているからこそ、このシナリオ製作が出来るのだ。
多分、自分の為だったら、ここまでしんどい作業なんか出来るものじゃない。
わかっていたけど、もっと、わかった。

誰かのために書いたシナリオを。
作家へのリスペクトをもって読み込む。
作品の為に芝居をして、監督の為に頭の中の世界を忠実に再現する。
この映画は全ての動きが、「誰かのために」動いているのかもしれない。
落ち着いて考えれば、「自分のために」動いている人が見当たらない。

これは、もしかしたら、デビッド・宮原という作家の本質かも知れない。
ずっとずっと、この人の作る作品は「やさしい」なぁって思ってきた。
そのやさしさの源泉は、結局、誰かのためにやっちゃっている所なのかもしれない。

甘えるのは簡単だ。
色々とやってくれるのは間違いないから。
でも、そういう自分をおいらは許せなくなってしまう。
その倍、恩返ししなくちゃいけないと思ってしまう。
だから、まずは読む。
書いた時間の倍の時間以上、読む。
そこからしか、始まらないから。
そこがまず最初の入り口だから。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:09| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする