毎年、梅雨明け宣言があると、すぐに雨が降るというイメージがある。
そして、大体、同じことを口にする。
「なんだよ、梅雨あけたんじゃないのかよ」なんて。
今年は、そういう雨ではなかった。
寝ていたら、バリバリと確実に近くに落ちたであろう雷の音が聞こえた。
それから、まるでシャワーのような豪雨が降っている音が続く。
眠っているのに、何度も、豪雨警報や、土砂災害警報がスマホに入った。
確かに何かがあってからでは遅いから、警報は深夜であれ必要なものだ。
おいらの住む地域のどこが警報だったのかはわからないけれど。
何度か起こされたことは、仕方のない事だ。
深夜に避難された方もいらっしゃったのだろうか?
起きると、青空が見えた。
夜間に嵐は過ぎ去ったようだった。
川の嵩は増えていたけれど、新緑の葉が、随分、落ちていたけれど。
まるで何もなかったかのような朝だった。
青空は見えたけれど、風があって雲が早い。
まだ大気が不安定なのかなぁと、傘を持つか悩んで、手ぶらで外出した。
昼間も、時折、雷と共に通り雨が降った。
空を見れば、積乱雲が近くにあって、少し離れたところでは嵐なんだなぁと何度も思った。
夜、遠く、遠雷を見る。
真っ暗闇のその向こうに、墨の中の墨で書かれた積乱雲が光る。
微かに、低く震えるような雷鳴が届く。
遥かに遠い北関東の方だろうか?
空を見れば早い雲の動きが見える。
近くに黒雲は見えない。
濃い湿気を纏った空気がおいらを包んでいく。
ざわざわざわざわ。
薄肌の一枚下を、何かがもぞもぞと動くような。
内側から、何かが吹きこぼれそうな。
今にも叫びだしたくなるような。
鋭敏な神経が尖り始める。
自分が今を生きていると実感する瞬間。
その瞬間はあっという間に過ぎて、また日常がやってくる。
大きすぎる自然のただ中で、小さすぎる自分を等身大に感じた直後の、脱力感。
この夏が、この季節が、なんらかの英気をおいらに送ってくれた。
雨の後のむっとするような、緑の匂いが、おいらを現実に戻す。
今までだって何度もあった感覚だ。
作品を創る。
舞台公演を一本やるにも、事務的な事や、現実的な事が山のようにあって、対応を迫られる。
そんな作業をしながら、同時に、作品を創ることは、作業では出来ない事だと自分に言い聞かす。
舞台の向こう側に、観てくれる誰かがいるから、作業だけでは作品は創れない。
そこには、太くブレない思いがある。
だからと言って、思いだけでも、作品にならない。
作業と思いの両方を失わぬまま、例え、どれだけ多くの物を背負い込んでも、前に進む。
それはまるで、鎖に縛られたまま進む、巨大な牛のような足取りだ。
重くなった足に、軋む骨に、痙攣する筋肉に、鞭を打つ。
そんな道程の中で、必ずやってくる。
ちっぽけすぎる自分が、やけに等身大に感じる瞬間が。
この感覚が。
遠雷がおいらの中の何かを目覚めさせた。
この作品を、遠く遠く、広く広く、伝えることは、おいらの使命だ。
誰の為でもないのかもしれない。
必ずまだこの作品を知らない誰かに、おいらは、この作品を運んでいく。
それだけでいい。
たったそれだけの思いで進む。
絶対に届けるのだ。
その時。
おいらには、見えるだろう。
遠い空に、光を。
闇の中に、光を。
早い風の下で。
響き渡る音を聞くだろう。