2016年08月22日

ギアチェンジ

美術を想定した稽古を始める。
稽古開始前、まず図面から説明する。
その後、ロケ候補地の写真でそれがどこに当たるか説明して、最後にイメージを見せる。

監督が到着すると、早速、美術プランに合わせた改訂校を持ってくる。
すぐにコピーして、配り、美術プランを想定したうえでの稽古が始まった。
実際に、広さを確認すると、色々とわかることが出てくる。
紙に書かれた図面で想定していることと、立ってみると違う事が出てくる。
全て、美術監督に伝えられるように覚えていく。
ここからこう撮影したいから、この戸をこうして欲しい。
ここは芝居上、こういう仕切りじゃないと、色々合わなくなる・・・等々。
本図面が仕上がる前に、少しでも早く伝えないといけない。

その状態で稽古が始まった。
改訂と言っても、大きくセリフが変わったわけではない。
動きの部分や、芝居の連続の部分が、美術プランが見えたことで変わっている。
シーン番号も大きく変動する。
一つ一つのシーンが繋がって長くなった。
その状態で、全員が美術プランにのっとって稽古をする。
想像以上の連続した芝居に、大きな手応えを感じる。
それは、まぎれもなく、監督が元々持っている、あのリズムがあった。

おいらが記憶する、ヒーローMONOのオープニング映像。
次から次へと、登場人物が出てくるそのテンポこそ、監督の元々持っているテンポだ。
一つ一つのシーンをじっくり撮影して繋げていく何倍もおいらは好きだ。
うまく説明できないけれど、芝居をしているのを観て、中野圭と、これ、面白い・・・と言い合っていた。
確実にこの撮影方法の方がリアリティが一段上がるなと感じる。
これをうまく説明することが出来ないのがもどかしいけれど。
劇団の舞台が持つ、あのテンポの映像版という事だ。

自分が演じるシーンも稽古してもらえた。
相手役が、どういう心情で創ってきたか、目が合ってすぐにわかったんだけど。
監督が、それとは逆方向の演出を要望した。
あ、これ、やりづらいだろうなぁと思った。
だから、納得するまでやろうと言った。
創ってきたものと逆を要望されることも稽古場ではある。
一瞬、自分の心の持ちようがわからなくなることは、役者によくあることだからだ。
重ねて稽古をしているうちに、その要望が馴染んできた。
「裏」を作っているという実感があった。

美術プランを説明したにもかかわらず、屋根や庇の位置を把握していない俳優もいた。
説明をちゃんと聞いてなかったな。コンニャロ。
もちろん、現場に入ればすぐに理解できることだけれど。
今回は、ちゃんと理解して、稽古場で芝居を作り込んでいくんだから、理解しないとダメ。
だから、何度でも説明した。
ここが玄関で、ここが奥入り口。ここが庇。
監督が、どこそこに立って、このタイミングでどこそこに行ってと演出した時に。
共通した位置などのワードを理解していないと、どんどん、演出に落ちこぼれていくことになる。
だから、注意深く何度でも説明していかなくちゃいけない。
理解のスピードもあるし、空間把握能力にもそれぞれ差がある。
しつこいぐらいに、説明し続けるしかない。

先週までの稽古とは明らかに違った。
少なくても、監督の頭の中に想定している映像世界が確実に具体的になっている。
もうテクニカルな稽古は過ぎ、それぞれの役の持つ気持ちの部分にも突っ込み始めている。
監督のイメージが、どんどん具体化していくスピードと、役者がそれを理解するスピード。
そこには、個々人で当然、差が出てくるだろうと思う。
そこを役者同士で、少しでも埋めていかないといけない。
何故なら、それが劇団という団体の持つ最大のメリットだからだ。

ここはこうなんじゃない?
これはこんな気持ちでやってます。
そう意見しても、即座に否定されたり、却下されたりすることもある。
それは、とっても、俳優としては恥ずかしい事だ。
でも、恥ずかしがらずに積極的に言うようにしている。
それは違うと言われてもいい。
なぜなら、「それは違うという監督のイメージ」がわかるからだ。
なんにも恥ずかしい事なんかない。
今は、とにかく、一つでも多くの監督の映像イメージを共有していく作業が第一義だ。

確実に今日、稽古のギアが一段上がった筈だ。
それを全員が感じているといいなぁ。
ここからは、もうこのシーンの稽古は今日が最後だと思って挑まないといけない。
時間は有限だ。
これは、演出前稽古だと思っていたら、時間が足りなくなった時に慌ててしまう。
時間が足りなくなっても、今日の稽古があったから大丈夫ぐらいまで理解を深めようと思う。


実はあるシーンの稽古で泣きそうになった。
すでに、そんなシーンが生まれた。
そして、そのシーンを撮影した映像を観て、とても、素晴らしいと思った。
このシーンをこんな風に撮影したいのか!と。
これが、長編となってパッケージになった時に。
どんな映画が生まれているだろう?

想像しろ。
想像しろ。
このリズム。
このテンポ。
この映像。
この美術。

とても困難な事だけれど。
とても素晴らしい作品になると確信している。

監督の思い描く脳内の映像を、更にパワーアップするような芝居をしたい。
脳内の映像を更に何段階も越えてゆかなくてはいけない。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 01:55| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月21日

空間把握

台風がものすごいことになっている。
現時点で日本近海に3つの台風。
9号、10号、11号と3つもあるのに、最初に上陸するのは11号。
10号は、普段見ないような西への針路をとり、9号はこれから二つを追うように北に進むそうだ。
各地で、深刻な被害もある。
飛行機、船、電車と交通機関にも大きな影響。
エルニーニョの終わりの年。
先日、台風が生まれるテンポが速くなるとここに書いたばかりだけれど、これほどとは思わなかった。

台風は熱帯低気圧の中心の気圧が更に低い塊だ。
おいらの目には地球規模のエネルギーの塊に見える。
凄いのは、自然においらなんかは、強烈な低気圧が近づくと、体調が変わる。
やけに眠くなったり、それを我慢すると、頭痛になったりする。
気圧と頭痛の関連性はまだ認められていないらしいけれど、おいらだけではないから、あると思う。
少なくても、哺乳類は嵐がやってくると、体を丸めて眠りやりすごす。
人間だって哺乳類なのだから、嵐の中、自然と体調が変わるのは当たり前の事のように思う。

先週の衣装合わせの稽古じゃなくて良かった。
大きなスーツケースを引いてくる女優がとても多かった。
明日は、どの程度の雨なのか。
想像もつかない。
帰りの電車にも影響が出るのかな?

明日の稽古では、美術を気にした稽古を出来るだろうか?
撮影のアングルや、美術打ち合わせがないと、実際にはそのセットのどこで撮影するかなどは決定しない。
ただ俳優にとってのアクティングエリアがついに見えたということになる。
パンパン小屋外部までになると難しいけれど、少なくても内部は稽古場の広さで確保できる気がしている。
恐らく監督は既に最終稿に着手していると思う。
最終稿では、アクティングエリアをどう利用するかも折り込まれているはずだ。
それが全てあがってからになると相当演出時期が遅れてしまう部分が出てくる。
撮影の段取りを考えれば、出来ること、出来ない事、やるしかない。

役者は一歩分のスペースが変わるだけで、芝居が変わると言われる。
一歩変われば、まず、左足、右足、どっちが前にあるかが変わるからね。
体の向きだって変わるし、相手の見え方だって変わってしまう。
十代の頃、ほんの小さなことで役者の感覚が変わるから、綿密に稽古しなさいと教わった。
稽古場にはテープでミリ単位で線を引き、ここは何歩前に出て、どのタイミングでセリフを言う。
そういう所まで稽古したのを記憶している。
舞台というお客様の前に立つ以上、入念に計算しつくさなければいけない。

でも、実際の舞台は違う。
本番はまるで変ってしまう。
入念に稽古してきたのに、大道具を置いてみたら、サイズが違っていたという事もある。
そこに立つつもりが、照明が置かれていたなんてこともある。
相手役が緊張感で、いつもと違う間合いになっている場合もある。
お客様がたくさんいらっしゃって、追加席を出した結果、舞台そのものが狭くなる場合だってある。
そもそも、稽古場ではなかった壁がそこにあるから、稽古場のようにギリギリの位置に立つことなんて出来なかったりもする。
だから、小屋入りすれば、それまでに固めたものを更にリセットされることなんかよくあることだ。
まして、稽古場で決めていた段取りは、小屋入りすると一気に3倍ぐらいの量に増える。
誰それの小道具を、この暗転で片付けてほしいとか、自分の小道具の置き場所をここからここに移動とか。
小屋入りしたとたんに、それまで稽古で準備していた以上の段取りが、どんどん増えていくのだ。
対応力が、あるかないかで、役者は変わる。
舞台で、初日に必ず緊張してしまう役者は、大抵、その対応力がない役者が多い。
初めての感覚に対応できないから、緊張してしまうのだ。

当然、撮影でも、その場その場で変化することはあるはずだ。
時間的な制約があるから、何度も演じることはもちろんできないけれど。
稽古場でどんなに固めても、カメラアングル的に、もっと近づいてくださいと、その場で言われたりもするはずだ。
或いは、日常会話の声のボリュームで稽古をしていても、マイク感度的にもっと声が欲しいと言われるかもしれない。
美術的に、何もない部屋なわけがなく、当然、稽古場にないような高さのものが置かれていたりもする。
その場で、ごめん、そこ、お茶飲みながらにして!と監督指示が入るかもしれない。
助監督から、絵的に動いている人が欲しいと提案があれば、監督が取り入れるかもしれない。
お客様の前じゃないのだから、どんどんその場で良くしていくことが出来る。
ただ、時間だけが足りないのだから、どんどん、その場で対応していかなくちゃいけない。
対応力が絶対的に必要になってくる。

今、稽古をしていて何よりも思うのは。
監督からの要望に、その場で変わる役者と、あまり外から見ても変わって見えない役者がいることだ。
その違いについては、やっぱりちゃんと考えていかなくちゃいけない。
シンプルに監督の要望の理解力の問題だけではない。
引き出しの数かも知れないし、もっと、根本的な部分かも知れない。
一番厄介なのは、自意識の問題だ。
自意識みたいなものが邪魔をしている役者は、本当に何も変わってないように見える。
役の意識だけがそこに必要なわけで、自意識が邪魔をしている俳優はそこを壊さなくちゃいけない。
それは、簡単な事じゃないけど、当然のコトな筈だ。
禅問答に近いやり取りを、自身の中で完結していなくてはいけない。

明日、稽古場に着いたら、撮影場所の説明をしよう。
ばみっても、その線を踏んで芝居してしまうような感覚の俳優も出てくるかもしれない。
今から意識できるように、少しでも手を付けていくべきだ。
俳優側でやれること全てをやっておくことは、最低限のスタッフさんへの礼儀だと思っているからだ。
その場で、俳優が必要とする時間を極力、自分たちで準備しておく。
撮影やセットチェンジなどのテクニカルに必要な時間をおいらたちで、確保していくしかない。

舞台とは違う。
裏導線はない。
楽屋までの道もない。
客席もないし、上手も下手もない。
天井には照明ではなく、天井がある。

ただそこに空間があることを明日、理解してもらわなくてはいけない。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:00| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月20日

敗北と謝罪

吉田沙保里選手一色だった。
霊長類最強女子なんて言われたギネスブックにも認定されるほどの絶対王者。
それが五輪という大舞台のしかも決勝で敗れたのだから世界中が驚いた。
あれほど敗北を想像できない選手はどこにもいなかった。

Yahoo!ニュースの見出しは、ポータルサイトだから各新聞記事の見出しだったり、それを短縮したものだ。
「吉田沙保里、負けてしまって、すみません」
この見出しを目にした時に、何とも言えない怒りが込み上げた。
確かに、インタビューでも謝罪していたけれど、そこを見出しにするのかと。
なんというか、人間的にどうかと思う。
日本人の民度は高いなんて、何かあるたびに見かけるけれど、全く持ってレベルが低い。
会場にいたブラジル国民たちのスタンディングオベーションを見た。
民度が高いとは、ああゆう事を言う。

もちろん、記事の内容は敗北を責めるようなものではなかった。
どこにも、誰も、敗北を責める人なんかいるわけがないのだ。
少なくても3大会も金メダルをとり、肉体的な全盛期を越えた今も、世界で第2位の成績を収めた。
16年間、チャンピオンであり続けた。
これほどまでの偉業を責めることが出来るわけがない。

卓球の福原愛選手の時もそうだった。
バレーボールの木村沙織選手もそうだった。
敗北した後のインタビューで、謝罪の言葉を口にしていた。
応援してくださった皆様の期待に応えることが出来なくて・・・・
日本人選手はいつもそうだ。
負けると、謝罪してしまう。
きっと、これは、日本人の持っている倫理観に根差している。
儒教的な発想が、結局謝罪に向かっていく。
江戸時代の切腹からそれは何も変わっていない。

日本では何度も目にしているから当たり前に思うかもしれないけれど、全然当たり前じゃない。
ブラジルW杯で、地元開催で優勝候補のブラジル代表がドイツに歴史的大敗をした時、誰が謝罪しただろう?
どんなに期待を背負っても、国の代表でも、全力を尽くした選手が謝罪するなんてことはない。
悔しいという気持ちが涙になったり、怒りになっても、謝罪という方向にはいかない。
精一杯やって敗れたのだとすれば、それは、相手が優れていたのであって、選手の責任ではないからだ。
だから、世界から見たら、選手が国民に謝る姿は、異常だという事になる。
どうして、そんなに簡単に謝るんだろう?と不思議に思う海外の人はとても多いだろう。

記憶にあるはずだ。
誰だって、子供の頃、ちゃんと謝りなさいと誰かに言われた筈だ。
徹底的に、謝罪について仕込まれる。
ちょっとしたミスだけでも、謝れと教え込まれる。
そして、それが礼儀であり、礼節だと言う。
そもそも、それがなぜ礼なのか、考えている人なんか実はほとんどいないのにだ。
形式としての謝罪は、同時に、子供たちに「建て前」を教育している事すら気付いていない親もいる。

だから、アイドルがスキャンダル問題で、坊主頭になる。
不倫をすれば、結婚相手ではなく、国民に謝罪会見を開く。
謝罪会見だと思っていたら、弁解会見だったときには、徹底的に叩く。
国民的アイドルグループの解散が報じられれば、真っ黒な服で視聴者に頭を下げさせる。
議員が問題を起こせば、秘書が首を括る。
とにかく、代理でも何でもいいから誰かが謝罪をしないと、収まらない。
そのたびごとに、一体、何に謝っているのか?という論議が出る。
実際にクレームを入れているのは何人なんだよ?という話も出る。

この儒教的な倫理観はいつかなくなるだろうか?
おいらにはとても窮屈にも思えるけれど。
この考え方は、たくさんの「美徳」も持っている。
切腹なんかバカバカしいけれど。
どこか、その潔さに感服してしまう自分がおいらの中にもいるのだ。
武士的な何か、日本人的な何か、儒教的な何か。
捨て去るには惜しいし、持ち続けるには無意識すぎる。

敗北と謝罪。

戦後71年。
日本は、敗戦後、謝罪を続けてきた。
首相談話で、子供たちにまで残してはいけないとの言葉が出たけれど。
謝罪はこれからも続くだろう。
国民に対しても、国外に向かっても。
やはり、それが日本人だ。

だが、日本人にはあまり知られていないもう一つの本質的な観念がある。
何もかも受容する、したたかさを持っていることだ。
儒教ですら、遥か大昔に朝鮮半島からやってきた学問に過ぎない。
仏教も儒教も、キリスト教も、蒸気機関も、造船技術も、飛行機開発も。民主主義すら。
理解して、自分のものにしていく。アレンジさえ加えていく。
本質的に貪欲で、好奇心にあふれていて、受容的なのだ。
そのままではいけないから、儒教的な教育で、表層を作ったという事だ。
建て前が儒教で、本音が貪欲という事だ。
だからこそ、この国は植民地になることもなく、経済的にも発展できた。

パンパンは、日本人の本音の塊だ。
謝罪で、腹は膨れない。
GHQに石を投げても、意味がない。
だったら、あいつらから稼いでやる。
アメリカ文化だって、なんだって取り入れてやる。
生き抜いてやる。

敗北直後の、むき出しの日本人だ。
儒教的な発想で言えば、絶対にこうあってはいけない側の日本人だ。

本音で生きようぜなんて簡単に言う人もいる。
敗北に謝罪する選手がいる。
芸能人の不倫会見に溜飲を下げる人がいる。
不倫会見なんてしなくても良いけど、しないと納得しない人がいるんだなと、自分を納得させる人もいる。
そのどれもが日本人的で、客観的角度から表現すれば、どれも滑稽な姿だろう。

敗北とは何か。
謝罪なんかでは誤魔化せない本質が、セブンガールズの中にある。
それだけは、自信がある。


負けてはいけないというプレッシャーから解放された吉田選手は、今、何を思っているだろう。
謝罪を終えて、時間を置いて。
悔しい気持ち、悲しい気持ちだけだろうか?
インタビュアーは、謝罪の言葉なんか引き出さないでいいよ。
彼女が謝る必要なんか、ひとかけらもないんだから。
おいらの目には、彼女は、敗北すら美しいと思うよ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:32| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする