2016年08月25日

衣装が持つ意味

舞台のセブンガールズと映画のセブンガールズ。
大きな違いは、やはり、あの扉の向こう側があるという事だ。
舞台では観ることの出来なかったパンパン小屋の内部がある。
実際にそれが行われていた場所。部屋。
それが、登場するだけで、リアルな感触が残るだろうと思う。
舞台ではなかった、例えば「布団」という道具が、それまで以上に意味を濃くしていく。

同時にパンパン小屋という場の持つエネルギーだけではなく。
そこに生きていた、いわゆる「生活」も顕在化していくはずだ。
舞台では基本的に、パンパンたちは、客を取るためのカラフルな衣装を着ていた。
実際に、終戦直後のパンパンたちは、着物や男物のシャツやアメリカへのシャツなどをミシンで直して着飾ったという。
物のない時代に、少しでも多くの客が撮れるように工夫した結果だ。
だからと言って、じゃぁ、寝る時も飯を食う時も、そんな恰好をしていたのかと言われるとそれは違う。
当然、寝る時の格好も、普段着も着ているわけで。
そういう普段の生活。
或いは、そこに生きていた共同生活の雰囲気。
そういうものも、映画ではどうしたって出てくるだろうと思う。

舞台版を覚えている方々はちょっと想像できないだろうけれど。
普段着のパンパンも登場するという事だ。
ウチとソトという日本の考え方がある。
神社の注連縄などは、全て、ウチとソトの境界線だ。
日本人は、古来より、ウチとソト、そしてその境界線をとても強く意識してきた。
室内では靴を脱ぐという世界でも特殊な文化は、そういう所からきている。
建物の前・・・客をとったりする門はソトで、室内はウチ、そして、玄関が境界線になる。
映画版では、シーンによって、ウチとソトを使い分け、そして、あらゆる「境界線」が現れるだろう。
玄関は、その「境界線」を意味する重要な場になる筈だ。

俳優たちも、そのウチとソトをどう表現していくか考えなくてはいけない。
一番わかりやすいのは、見た目という事になる。
仕事着はカラフル。それに普段着や寝間着。メイクも変わってくる。
撮影効率を考えるとどのシーンでどういう状態なのか早い段階で確認しないといけない。
最終稿があがってからにはなるけれど、すでにそれは動いてもらっている。
何人かで手分けしてもらおうかとも思ったけれど、一人の方がかえってやりやすいと言ってくれた。
シーンの合間で、衣装替えやメイクチェンジが入る数を極力減らしていけば効率が上がるからだ。
パンパンにとって、客の前の顔、仲間の前の顔、男の前の顔。
もちろん、一番大事なことは演じ分けていくことだけれど、映画だからこそ、見た目も大きく関係してくる。
自分が思っているよりもずっと大きな要素になる筈だ。

既に衣装が揃っていそうなのに、今、衣装を探している役者がいるのはそういう訳だ。
ただ、今までの衣装を、よりよくすればいいとか、イメージを揃えるだけではない。
今まで見せてきた衣装だけではない、初めて見せる部分の用意を今から準備しているのだ。

よく、女は誰だって女優なんて言う人がいる。
それは、おいらから見ると、あながち間違っていない。
普通に生きていれば、女性は男性よりも何倍もの顔を使い分ける。
好きな男の前の顔と、家族の前の顔と、立場がある場の顔を、普通に生きるだけで使い分けていく。
それも、ごく自然に、そのどれもが本人であるまま、文字通りの使い分けが出来る。
そういうことが苦手な人もいるけれど、苦手なりに、やっぱり使い分けている。
舞台よりも、ずっと、プライベートな部分まで侵入する映像では、その境界線まで映ってしまう。
衣装やメイクは、感情などとは別の、そういったペルソナに大きな助けをくれるだろう。
逆を言えば、より、メイクを決めて仕事着を着て踊った時に、華やかに感じるだろう。

もちろん、あくまでも、それは助けでしかない。
実際に、そこで共同生活していた事。
舞台とは違ったウチの領域の顔を演じること。
それを怠ったら、ただ服を変えているだけになってしまう。
服を買えただけで、芝居がノるということはあるけれど。
それだけではやっぱり成立しない。

その点、男たちはずっとずっとシンプルだ。
衣装の種類が必要な役なんて、1~2役だ。
ウチの顔を見せなければいけないというのも、余りいない。
そもそもが、いつでも突っ張っているのが男だから、というのもある。
逆に言えば、常に突っ張っている中で、弱い部分も汚い部分も全て表現する難しさはあるけれど。
とは言え、それでも、男たちも意識していかなくては成立しない。
ちゃんと、男は男で、馬鹿じゃないといけない。
パンパンが見せる客の前の顔に、簡単に騙されたり、嫉妬しなくてはいけない。

衣装合わせの時期も出ている。
その日が楽しみだ。
それまでのあのパンパン達だけではない。
初めてみる、パンパン達に逢えるからだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:22| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月24日

俳優の責任

酷いニュースが流れた。
心がざわついた。
俳優が映画撮影ロケ滞在地ホテルで強姦致傷。
これから、スキャンダルに騒ぐのだろうけれど、そういうことではなく、引きつった。

まず何よりも被害者や、その被害者周辺の皆様を思うと、最低最悪の事件だ。
弁解の余地など、ひとかけらもない。
俳優は、ありとあらゆる他者を演じる。
つまり、他者の気持ちを含めなければ、俳優などできない。
社会的弱者を演じることもあるし、心の弱い部分を直視しないといけない。
そういう俳優がなぜ、こんなことになってしまうのか、想像もできない。
・・・というか、俳優ではないのだろうと思ってしまう。

今、セブンガールズという作品を取り組むに当たって、様々な資料に目を通している。
例えば、世界中の軍隊における慰安婦とはどんな存在で、どこまで国家がかかわっていたのか。
或いは、戦勝国の兵士たちが、どれほど性犯罪を犯してきて、しかも、裁かれていないのか。
日本の敗戦だけではなく、現在も続く問題として、残っている。
アメリカの軍人も、ヨーロッパの軍人も、特に有色人種に対しては、かなり酷い。
今は人権を高らかに歌っているけれど、かつては、間違いなくそうだった。
敦化事件などは、いかに「戦争」が悪なのかすぐにわかる。
敦化事件を知っている日本人が余りにも少ないけれど。

そんな資料に目を通すたびに、被害者の気持ちにシンクロしていく。
そういう事が出来ないで、俳優というでは・・・。

被害者だけではなく、関係者たちへの迷惑の大きさだ。
テレビ、CM、映画。
その全てを一斉に直さなくてはならない。
本日の夜の放送を急遽、編集し直すのだから・・・。
今週末の24時間テレビのスペシャルドラマに至っては、関係者試写会まで終わっている。
これを再度、撮影し直して、当日までに編集まで完成させるということは・・・。
今日から、当日までスタッフさんたちはほぼ不眠不休で働くという事だ。
事件を起こした映画にいたっては、お蔵入りになる可能性も高いだろう。

劇団でも公演直前に、俳優が出演できなくなるというピンチが何度かあったことがある。
その時の事を思い出すと、今でも震えるほど恐ろしくなる。
開幕できないかもという恐怖の中、なんとしても開幕しなくてはいけないからひたすら進んだ。
休憩などは全て返上して、開幕できるように必死になった。
一度は、伝染する病気に俳優がかかって、急遽、一人の俳優が二役やることになった。
その日のうちに、もう一役のセリフを叩きこまなくてはいけなかった。
一度は、クライマックスの立ち回りに出演する俳優が、どうしても出演できなくなった。
急遽、別の俳優に殺陣を伝えて、それが怪我なく出来るレベルに達するまで、本番ギリギリまで稽古をした。
一度は、俳優が怪我をして救急車で運ばれた。
代役を用意しながら、同時に松葉杖などでの出演が可能か両方の道を探った。
その時のストレスは、つつかれただけで、泣いてしまうような状態だった。
ギリギリの精神のまま、開幕の瞬間まで、必死に走った。

そういうことを、欲望のために、起こしたのだ。
おいらは、事件を耳にした瞬間、被害者とスタッフさんを想像して、引きつったのだ。
むしろ、何か力になれることがあるんじゃないだろうか?ぐらい考えた。
おいらに出来ることなんか何もないけれど、こういう場面を知ってるから、助けなきゃ!って思った。

責任の問題だ。

俳優は、俳優ですと言えば俳優なのか?
そうじゃないだろう。
少なくても俳優は、観客がいて、初めて俳優として存在する。
その上、ストリートでもなければ、スタッフさんがいて、初めて芝居が出来る。
その上、一人芝居じゃなければ、相手役がいて、初めて芝居になる。
どんな端役だとしても、俳優である以上、その責任だけは背負うべきだ。

今、映画製作をしているから。
余計に、過敏に反応したのかもしれない。
世の中何が起こるかなんてわからないけれど。
起こらないで済むことは、回避していかないといけない。
事前に出来ること、安全確認、責任感、全て持たなくてはいけない。
舞台でも同じだけれど、映画は舞台よりも更に外に開いていて、経済的にも広い。

その責任をおいらたちは、ちゃんと感じているか?
肝に銘じているのか?

こんなニュースは目にしたくなかった。
こんなニュースは口にもしたくない。

被害者だけではない。
全ての女性に謝罪するべきだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:54| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月23日

量は力です。

関東に台風上陸。
10年以上直接上陸がなかったなんて驚いた。
大なり小なりの被害が皆様にもあったと思います。
おいらにも多少はありました。
避難勧告も出ました。
でも、幸い大きな被害はなく済みました。

北海道は大変だな・・・。
連日になってる。
今日のこの台風はそのままこの夏、北海道3度目の台風になる。
10号の動きも不気味です。
皆様に大きな被害がないよう、お祈りしています。
倒木などには、近づかないでください。
それと、切れた電線を見かけても、絶対に近づかないでください。

半日で8月の平均雨量以上の降水・・・。
台風国家の日本の首都だから、この程度で済んだのだと思います。
おいらの子供の頃なんかは、わりと大きな河川も氾濫したけれども。
今は、河川敷の土手とか、排水処理とか、地下排水とか、地下貯水池が充実しています。
かく言う、おいらの家の傍にも、細いですが川が流れていて、かつては、何度も氾濫したそうです。
だから、今は、川沿いに建つ商業施設などの地下には地下貯水池があります。
また他の川との合流地点ごとに貯水するポイントがあって、かつ、危険水位になればすぐにわかる管理センターもあります。
おいらの家はその川よりも少しだけ高い位置にあるから氾濫してもそこまで被害にならないと思いますが・・・。
こんな雨だったら、数十年前だったら氾濫していたと思います。

まだ子供たちは、夏休みが残っていると思います。
でも、遊びに行くのなら、なるべく大人が付いていくか、事前に注意してあげてください。
海は荒れています。川は水位が上がっています。山は地盤が緩んでいます。
子供の頃、防波堤のある所で台風の次の日に泳いで、波に飲まれるのを楽しんだ経験があります。
信じられないぐらい、強い波の力です。
知らずに、防波堤のない場所で遊べば、あっという間に沖に攫われます。

量は力です。

おいらの芝居の師匠はアングラと呼ばれる世界で知る人ぞ知る演出家でした。
おいらが出会った頃、それまでやってきた劇団を解散して、新たに別の芝居を探し始めていました。
その頃、ぶしつけなおいらは、劇団を解散して何が一番変わったのか聞いたことがあります。
その時、はっきりと、「人数」と答えました。
劇団を解散した結果、新しいグループにして、役者が半数近くに減っていたのです。
誰がいなくなったのが大きいとか、ではなく、シンプルに「人数」。
舞台上に、人数が乗っているだけで、それはもう、パワーなのだと言いました。
数が減れば、隙間が出来ます。
その隙間を、役者は埋めていきます。
そこに役者が喜びを感じるかもしれないけれど、演出家の目から見れば、パワーダウンなのだと。
これは、ちょっと意外で、驚きました。

リオ五輪、最終日の夜。
サッカーの決勝。
地球の反対の日本では朝早かったですが、たまたま延長の時間に起きて、そこから観ました。
結果的に同点で終わり、PK戦までもつれ、報道のように、ブラジルが初のサッカー金メダルを獲得しました。
ブラジルW杯や、コパ・アメリカから続く、大河ドラマは、シナリオライターがいるかのような結末を迎えました。
ただ、おいらが本当に感動したのは、サッカーではありませんでした。
サッカー大国と呼ばれるブラジルという国の底力というか、全員が立ち上がった姿です。
スタジアムだけではありませんでした。
パブリックビューイングで、道路で、右でも、左でも。
とにかく、国民すべてが、ネイマール選手のゴールが決まった瞬間に歓喜の声を上げたのです。
まさに国全体が一つになるというのを目の当たりにしました。
その姿に感動を覚えたのです。
スポーツによるナショナリズム高揚なんて言い方をする人もいますけれど。
スポーツでそれが出来るなら、これはこれで素晴らしいです。
おいらは、例えばバンドのライブでも、会場が一つになる瞬間を観ると背中に電気が走ります。
それの、数百万倍を目の当たりにしてしまった気分でした。

量は力なのです。

セブンガールズという企画の一番の無茶は、もしかしたら、時代劇であることではないです。
その量です。
大作映画でも、中々、これだけの登場人物は出てきません。
最近なら、ロクヨンやシン・ゴジラぐらいじゃないでしょうか?
エキストラではなく、本役がこれだけ出演する日本映画は、中々見当たりません。
分量はもちろん、登場人物の人数、エピソードの数。
いつも舞台で当たり前にやっていても、映画の世界では余りないのです。
薄めて量を増やすのではなく、濃いままその量を閉じ込めようとしているのです。

終戦後の餓死者数であるとか。
GHQが起こしたわかっているだけのレイプ事件の数だとか。
おいらが調べた中で、ここにも書きたくないような数もあります。
その量は、人を狂わせるに十分な情報だからです。

量はやはり力です。
力だからこそ、個を簡単に飲み込んでいきます。
それは利用もできるけれど、危険なものでもあります。
正しく理解できるかできないかで、大きく変わります。
この量の持つ力に対抗できる個があるとすれば、それは理解だと思います。

だから、どうか、台風の雨量というものは、更にその理解を超える水量なのだと。
そんなことを思った次第です。
きっと、今、頭の中にあるテーマにこの台風のことまで近づいてきてしまって。
そういう発想になっているだけなのですけれど。
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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:59| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする