3本、自分の作・演出・出演という形で舞台をやった。
作家になりたいわけではないのに、やったのは、他に方法がなかったからだ。
その経験を買われて、前方公演墳の旗揚げの手伝いをすることになった。
状況を聞いて、それが初舞台だという俳優がたくさんいることを知ったからだ。
初舞台は絶対に忘れることが出来ないものだし、たくさん反省するものだ。
その反省が、別の方向になっちゃいけないと思っていた。
照明さんが、照明会社に入ったばかりで、プランも初めてというようなスタッフと言われて。
それは手伝わないとまずいなって思ったからだ。
照明の仕込み図を読める人間も恐らくいないし、一人で仕込むなんて絶対に不可能だと思った。
照明がつかない初舞台だったり、電圧計算がずれて、本番中にきれたりしたらと思ったらぞっとする。
プランを見せてもらって、とにかく、なんとかしようと思って劇場に行った。
中野ザ・ポケット。
こんな舞台で初舞台を踏めるなんて幸せだなぁって思った。
おいらの初舞台は定員80名の客席の椅子も足りないような劇場だった。
小屋入りするなり、どんどん照明を吊って、回線を仕込んでいった。
落下防止チェーンのチェックも、怖いから全てやった。
照明の事を知っている人間はやっぱり誰もいなくて、仕方ないから脚立だけ支えてもらった。
にもかかわらず、仕込みの時間が異常に少なくて、本当に開幕できるのか冷や冷やした。
なんとか、照明が灯って、お役御免と思ったけれど、それだけでは済まなかった。
まともな劇団の制作がないままの旗揚げだったのだ。
セッティングした客席の数よりも多い数のチケットを売っていた。
受付は用意されていたけれど、場内整理という概念がなかった。
おいらは、開幕まで走り回って、劇場にある椅子という椅子をお客様が来るたびに運んだ。
すでにお代を頂いているお客様を席がないと追い返して大クレームになるような初舞台にするわけにはいかなかった。
今になって落ち着いて考えると、前方公演墳の舞台もまさに初期衝動の塊のようだった。
チラシは、デビッド・宮原本人が、写真を切り貼りして、自分で創ったものをカラーコピーしていた。
チケットも、手作りでコピー機でコピーして切ったものだった。
大道具も、どこからか切り出してきた竹や、ビールケースを組み合わせていた。
照明さんも、初めてだったし、音響さんはセブンガールズの音楽担当でもある吉田トオルさんだった。
全て、劇場側のスタッフさんに確認しての仕込みだった。
そして、制作部がなかった。
手伝いに行ったおいらやほかの何人かの食事がなくて、あわてて買いにいっていた。
結局、劇場の外にブルーシートを敷いて、そこで、おにぎりを食べた。
スタッフさんの食事すら、誰もどうするか考えていなかったのだ。
舞台経験者は何人かはいたけれど、役者として立っただけで、劇団運営や、制作の経験者なんていなかった。
それにしても、その状態で、よく旗揚げまで漕ぎつけたよなぁと思う。
主宰が写真を切り貼りしてチラシを作っただけでも、今なら驚いてしまう。
制作面も、照明も、ほとんど準備がないまま、よく本番を迎えたと驚いてしまう。
今のおいらが見たら、怖くて、公演なんかできない。
役者は、スタッフ仕事なんか役者はしないでしょ?と当たり前に思っていた。
客席をつくるために、楽屋の椅子を運んでいたら、普通に役者からクレームさえ言われた。
お前の初舞台を成功させるためだわ!とは、言わなかった。
とにかく、知らないのだから。
ああ、わからないんだ。そうか。わからないまま本番を迎えるのか。
おいらは、そう思っていた。
そのまま2回、公演を手伝って、2回目の公演後に、劇団に誘われた。
誘われた経緯は前にここに書いたと思う。
2回目の公演後の反省会から、おいらは稽古に参加して、今に至る。
その反省会は、ちょっと、面白いほど、トゲがあった。
ああ、こういう感じなんだなぁ。
そんな風に思った。
その2回の公演は、やはり初期衝動というもので動いていた部分がたくさんあったと思う。
少なくても、最初の2回の公演は、前後編に分かれている同一の作品で、旗揚げ前から書いていたものだ。
おいらが参加した3回目からは、実際に旗揚げをしてからの新作になる。
舞台を想定して、何をするのかがわかって、そこからが継続と向上のスタートだった。
そこから先は、衝動だけで出来るものではない。
続けることだけを決めても、どこかで息切れしてしまうのは目に見えている。
チケット収入から逆算した予算の確立、公演前の制作班の設立、年度ごとの目標。
舞台をやる!だけでは出来ない、継続するための準備期間に入った。
少しずつでも、大きな劇場に進出していくという目標の中で、作品性も、スタイルも固まっていった。
デビッド・宮原という人は、おいらなんかに比べれば、ずっと慎重な人だ。
おいらほど無謀な事をするタイプの人ではない。
それでも、自ら台本を書いて、演出して、チラシまで作って、劇団を旗揚げさせた。
とにかく、船を海に浮かべてみた。
慎重な人だからこそ、おいらに手伝ってと声をかけたのだと思う。
その後、何度もおいらが提案した無謀な話をいさめてくれている。
そんな人が、もうやらなければいけない。そういう決断をしたってことだ。
そして、その決断からもうすぐ18年という月日が経った。
初期衝動だけでは絶対に不可能。
ましてや、大きな劇場に進出したものの、メジャー劇団と言われるわけでもなく、誰かが売れるわけでもなく。
安定した老舗の劇団的に言われることも多くなってきた現在の状況で。
それでも、続けられるのはなんでなんだろう?と考える。
慎重な人の決断は重い。
思うようにいかなかったことが殆どだけれど、信念はずっとあった。
いや、あったではなくて、今もある。
その信念が、初期の衝動として旗揚げに向かったのだと思う。
自分たちの力で前に進む。
そういうことだ。
安定なんか何もしていない。
経験が積み重なっているだけだ。
今でも、やっぱり、挑戦し続けている。
きっと、ずっと応援してくれている古くからのお客様はわかってくれていると信じている。
安定や現状維持を目指したことなんか、一瞬たりともない。
曲がらない信念のまま、今に繋がっている。
今思えば、無茶な旗揚げ公演も、やっぱり無茶な理由があるのだ。
無茶でもなんでも、始めなければ、始まらなかったのだ。
まるで地下から空を睨むかのような。
そんな衝動でこの劇団は始まった。
もちろん、劇団員たちもそこから始めている。
今でも、空をみているか。眺めているか。睨んでいるか。
あの初期衝動は間違いなく今回の映画化にも続いている。