2016年07月30日

山を登るように

7月が終わる。
8月に入れば、いよいよキャスティングから演出に移行していく。
撮影までの期間はあるけれど、稽古時間だけでみれば、そこまでない。
一つのシーンごとに使える時間はそこまで多くない。
それでも、仕上げていかないといけないのだ。

実は、オーディションも予定している。
劇団員だけではなくて、数人だけれど。
概要をまとめようと言ったまま、中々、ここだけは進まない。
劇団員は全員出演して、なおかつ、他にも募集しようとしているのだ。
つまり、本当に大人数の出演者になる。

先日の打ち合わせでも、Pが冗談で某映画よりも登場人物が多いと苦笑していた。
大人数が出演するというだけで、実はとんでもないことなのだ。
恐らく劇団員だけが出演したとしても、異例の多さだ。
映画が通常2時間であれば、その時間内で届けることの出来る情報量は限られている。
だとすれば、登場人物が少なければ少ないほど、人物を深く描ける。
撮影進行も、人数が少ない方が、よりやりやすくなる。
低予算映画となればなおさらで、人数的なパワーはエキストラ出演シーンなどで構築するのが通常だろう。
最近の映画は、予算が大きい映画でも地域振興で、地域で撮影して、ボランティアエキストラを募集することが多いようだ。
人気俳優が出演しているほど、ボランティアが集まるなんて話も聞いた。
自分の街で、自分の参加した映画が出来るというのは、大きな文化事業になるのだろう。
それは、なんていうか、本当に素晴らしい地域振興活動だと思う。

大河のような作品であれば、合戦シーンなど登場人物がどんどん増えていくけれど。
人物を掘り下げる数にはやはり限界があるのだ。
そういう意味でもこの作品は、特殊で、最近みかけることが珍しい作品になるだろう。
群像劇。
いくつもの人物を描くことで、作品のイメージが出来ていく作品だ。
日本で一番有名な偶像劇ってなんなんだろう?やっぱり七人の侍なのかな・・・。
名作中の名作だけど、上映時間もとても長かったし、比較対象にもならない。
肉体の門でも、他の作品でも、娼婦の作品は群像劇が多いかもしれない。

なんというか、作家や映画監督は、いずれ群像劇を書きたいと誰もが思っているのではないかと思う。
一人の人物を掘り下げて書いている作家でも、ある瞬間に、多くの人物が登場する作品を書く。
物語を構成していく作家にとっては、群像劇ほど書きづらいものはないと思う。
何故なら、一人の人物を掘り下げる作業と同じ作業を、複数の人数にするからだ。
実は人物の掘り下げは、登場人物の数で浅くなったりすることはないのだ。
だから、群像劇を書くのは、作家にとっては大きな挑戦になっていく。

北方謙三さんがハードボイルド作品を手掛けていたのだけれど。
ある瞬間から、三国志、水滸伝などの中国歴史活劇を書くようになった。
すでに数十巻に及ぶ大作を何作品も出しているし、今も継続中だ。
おいらはいくつか読破しているのだけれど、毎回最初のページを読むと驚いてしまう。
最初に登場人物一覧がついているのだけれど、それが4ページぐらい続いていたりする。
それも、全て、中国名だから、漢字二文字だったりするのだ。
そして、読んでみて、もっと驚くのはその一人一人に詳細な人物設定がなされていることだ。
なにせ、この登場人物がこんなこと言うだろうか?という違和感が一切ない。
水滸伝なんて108人の主人公がいる大作なのだ。
それにとりかかろうというのだから、やはり、作家にとって大きな山に立ち向かうのと同じ作業なのだと思う。

デビッド・宮原は何年も劇団で作品を書いてきた。
はじめは、主演が一人の作品を書き続けていた。
劇団員の数から、登場人物は多かったけれど、群像劇と言えるものではなかった。
そういう特殊な環境から、役者一人一人にもっと掘り下げた役をやらせてみたいという思いもあったのだと思う。
どんどん作品は群像劇になっていった。
だから、一人を掘り下げた作品も、当然書いてきた人だ。
その人物描写をおいらは演じることで何度も体感してきたけれど。
主演の頃と、今とで、役作りや台本上の設定量が変わったという印象がない。
あるとすれば、サクセスが省略されている場合があるぐらいだ。
そのサクセスも、他の役が代わりにどこかのシーンで演じてくれていたりする。
多分、今、一人を掘り下げた作品を書くのってどうなんですか?と聞いたら、楽だろうなあって言うだろう。
今の何倍の労力で書いてしまうのではないかって思うぐらいだ。

7月が終わる。
いよいよ演出に向かっていく。
それぞれが覚悟しなくてはいけない。
少なくても、作品の事を考えなくてはいけない。

群像劇が群像劇たらしめるとすれば、それぞれが作品の一部となれるかどうかだからだ。
自分が作品の中でどんな役割を演じるのか、それぞれが理解して覚悟できるかどうかだからだ。
主役と同じだけの、設定量が用意されているからだ。
そして、自分以外の役やシーンについても、どこまで理解できるかだからだ。

それが出来た時。
こんな群像劇はそうそう創れないし、他の誰も書けない。
そんな作品になると、信じている。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:40| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする