織田氏と出かける。
暑い中、何とも言えない味の煙草を吸う。
さて、台本のコピーがあるからと、稽古場に急ぐ。
到着すると、バックが稽古の休憩中だった。
すぐに、織田氏と二人でプリントアウトした第2項を分けて、2つのコンビニのコピー機でコピーする。
膨大な量だし、何もコンビニコピーで・・・とも思うのだけれど、やはり、少しでも早い方が良い。
役者にとってのシナリオは、旅人にとっての地図だ。
セリフの変更点を、書き込んだ初稿のシナリオは、もう真っ黒だ。
かなりのページ数の初稿から、ほとんどすべてのページに改訂が入った。
簡単な語尾の変更から、シーンのカットや、別の意味付けまで。
シナリオの余白へのメモも、もう限界に近かった。
コピーしたシナリオをページごとに揃えて、稽古場に並べる。
それぞれが、自分で持ち帰って、製本していた。
自分のシーンをいち早く確認する役者もいれば、斜め読みして、どんどん頭からよむ役者もいる。
監督が、2度書いたに等しい第2稿。
初稿からどう変わったのか、どれだけわかるかなぁ。
ソリッドになった部分もあれば、詩的になった部分もあるし、わかりやすくなった部分もある。
それまでの初稿から、格段に読みやすくなったシナリオを手にして。
皆、意外にも嬉しそうだった。
そして、稽古に入る。
今日、監督の口から出た一番印象的な言葉は。
「それは、役者のスタンスじゃない?」
「そこから先が、役者の仕事だよ。」
の2つ。
役者の質問に、周りの役者も一緒になって、色々と発言をして。
その中で、監督が口にした言葉だ。
おいらが、この時に思ったのは、この空気をどこまで進められるかなぁという事だった。
誰かの芝居を観たり、誰かが芝居の疑問点を口にした時に。
そこにいる俳優たちが、積極的にそこに参加していくこと。
もちろん、演出家や監督の意見が一番だけど、今回は、それぞれのディスカッションが大事だと思う。
いつもは発言しないような俳優が、自分の印象を口にした時。
少し、稽古場が動いたような。そんな気がした。
結果的に言い合いになってもいいとさえ思っている。
良いものを目指そうとすれば、それは当然の事なのだから。
相手役に自分の印象を聞くとか、自分から言うとか。
いつもの舞台よりもずっと活発になりつつある。
そこに監督がいれば、そういうディスカッションも、最終的に収まる。
舞台よりもモニタで、一歩だけ自分の演技に客観的になれる今の稽古でこそ、これが必要なのだと思う。
そして、それが20年近く一緒に稽古してきた最大の強みになるだろうなと直感している。
今日も、そんなディスカッションの後。
監督が収めた。
その意見は正しい。
でも、これも正しい。
それは、役者のスタンスじゃない?
どちらをどう選んでいくのか。
そこから先が、役者の仕事だよ。
役者の仕事。
仕事ってなんだって聞かれれば、そこに責任を持てるかどうかだと思っている。
責任を持たないのであれば、そんなのは、仕事のうちにはまだまだ入ってないんだよ。
演出家や監督の仕事は、つまり、こうしなさいと言って、そこに責任を持つことだ。
OKを出して、そこに責任を持つことだ。
だとすれば、役者は、自分で自分の演じる方向性や、自分の作品とのスタンスを確定させて。
その表現に責任を持つのが仕事だという事だ。
演出の及ばない、細かい部分の役の機微。行間。表情。
その全てに責任を持ちなさい。
そういう意味においらは理解した。
レイとイチの間には、永遠と思えるような隙間がある。
イチとニの間とは大きく違う。
何もないか、何かがあるか。
何かの量とは違う、絶対的な差だ。
誰かの小さな意見も、あるとないとでは違うのだと思う。
誰かの小さな疑問も、あるとないとでは違うのだと思う。
帰り道。
織田氏と吸った煙草の味を思い出す。
あの時間は、有るでもなく。無くでもない。
何とも言えぬまどろみの中だった。
このまどろみを、抱えて進むのだ。
このまどろみこそ、起源なのだ。
そこから、生まれるんだ。
まるで、それは、音楽のようじゃないか。
進むのだ。
そして、美酒を手に出来れば、それが一番だ。