映画撮影現場にお邪魔したり、ドキュメンタリーを観ていていつも好きな瞬間がある。
撮影をして、じっと睨むように、モニタ画面を監督が見ていて、カットがかかる。
一瞬の静寂がそこに流れて、全てのスタッフが監督に注目しているのが解る。
そして監督が一言「オッケー」と言う。
瞬間、緊張は弛緩して、スタッフさんが「オッケーです!」と伝達していく。
なんというか、あの監督がOKを出す直前の瞬間。
あれが、撮影現場の様々なことが凝縮された瞬間なのだろうなぁと思う。
役者の芝居は勿論、アングルや照明等々、技術的なものまで含めて。
頭の中で完成を思い浮かべながら、その責任ある決定が出来るのは監督しかいないのだ。
監督が、もう一度というのか、オッケーと言うのか。
誰もが気にする瞬間だ。
多分、OKにも色々な意味がある。
監督の思った通りの撮影が出来た時のOKもあるだろうけれど。
編集で何とか出来るか・・というOKもきっとある。
逆に、思っていたのとは違うけれど、結果、これを使いたいというOKもあるのだと思う。
最高だからOKもあれば、いまいちだけど、まぁここまでならのOKもあるだろう。
いずれにせよ、OKを出せば、もうそれ以上の素材は用意できないのだ。
その素材を編集して作品にまで仕上げなくてはいけない。
だから、OKには、作品に対する責任がかかっている。
監督にしかわからないOKもあれば、監督にしかわからないもう一度!もあるという事だ。
どんなに共有したイメージを持っていても、そこだけは、監督にしかわからない。
泣きめし今日子や、ショートフィルムでデビさんは監督を経験しているとは言え。
初の長編で、どんな思いでOKを出すのだろう。
その責任を負わせてしまったのはおいらたちだし、もっと言えば、おいら自身だ。
最初のOKも、クライマックスのOKも。
全て、監督が出さなければいけないのだ。
舞台演出と、映画監督では、色々な違いがある。
少なくても、編集と言う最大の違いがある。
後から、自分の視点を動的に加えていくことが出来るのだから。
編集が一番の違いだとすれば、OKを出すことはその次ぐらいに違う事だと思う。
舞台演出でもOKをもちろん言うけれど、それはあくまでも舞台稽古場でのことだ。
本番は、OKもNGも言う事は出来ない。
稽古場で練って、託すのが舞台演出だ。
でも、映画監督は、役者が持つ舞台本番の緊張感を、監督が持つという事だ。
そこの責任を持つのだから。
今日まで、デビさんのたくさんのOKを観てきた。
稽古場でのOK。
ショートフィルムでのOK。
レコーディングでのOK。
そのどのOKとも違うOKを今回は強いてしまう事になる。
申し訳ないなぁと思う自分と、その選択眼への信頼と期待を持つ自分が、せめぎあっている。
OKが集まって。
作品が出来る。
たくさんのたくさんのOKだ。
色々な意味を含めたOKだ。
きっとおいらは耳を澄ますだろう。
監督の口から、その言葉が出る瞬間に。
そして、自分がOKを貰った時に、どんな気持ちになるのだろう。
想像もつかない。