オーラの話や、存在感の話を書いていて思い出したことだ。
以前、舞台の稽古で、存在感を持つというテーマで取り組んでいた時期がある。
歴史上の人物であったりを演じなくてはいけないから、どうしても、考えるべきだった。
その稽古の時、完全に勘違いしてしまった役者がいた。
たっぷりと間を使って、ゆっくりとセリフをいい、周囲を睨みつける・・・。
確かに、存在感と言われれば存在感だろうし、印象には残るけれど。
そういうことじゃないって、何人かが話していた。
それは、威圧感だろうと。
いくらなんでも、そんなのじゃ、安っぽすぎる。
威圧感を芝居で演じることっていうのは、そこまで難しい事じゃないと思う。
むしろ、威圧される側のリアクションとかの方が、難しいとおいらは思っている。
周りを威圧すれば成立するんだったらそれほど簡単なことはない。
後は、周りが威圧されてくれればいいし、台本上も、黙ってくれることになっている。
でも、そんなのは、芝居の構造上、そうなるように始めから出来ているのだ。
本当の存在感ってそういうものではない。
例えば、気さくな織田信長を演じてくださいと言われた時に。
威圧感で存在感を出せない状況になってしまう。
それでも、気さくに話しながら、やっぱりとんでもない男だという存在感を演じなくてはいけない。
そっちの方が何倍も難しい技術であり、或いは、技術だけでは何ともできない問題になる。
存在感というのは、そこに実在しているとどうしても感じてしまうような事だ。
それは多分、目立つということとも、ちょっと違う。
目立つっていう意味で使われることも多いけれど、それは間違っているのだと思うよ。
他の役者が中心になるシーンで端っこに立っているときに、本物の存在感を持っている人はそこまで目立たない。
その代わり、そこにいること自体に説得力がある。
当然、そこにいるべきだよなっていう、オサマリがある。
だからこそ、その人がついに中心になるシーンがやってきたときに、ドンと来る。
もうその物語上の人物そのものなのだから、待ってました!になっている。
全てのシーンで目立ってしまうようでは、本当の存在感とは言えない。
どのシーンでもそこに当然生きていて、物語全体で観た時に印象に残る。
それが、本当の存在感だと思う。
物語の世界で生きるということは、物語の外でも生きるという事だ。
だから、実際に表現されない普段が垣間見えたり、登場していないシーンでも呼吸をしていたり。
そういうその物語の中でカメラが向いていない間も、物語の世界の中にいる存在感があることになる。
あの人は今頃何をやっているんだろう?というセリフの時に、ふっと浮かんで来る。
そういうのを存在感というんだ。
男はつらいよの、さくらが、お兄ちゃん、今頃どの辺を歩いてるんだろう?と言った瞬間。
映画館の観客は、あの寅次郎の存在をすっと受け入れてしまう。
渥美清さんが演じているなんてことは、もう頭の片隅にもない。
実際の存在として、車寅次郎を思い浮かべてしまう。
そこまで行って、初めて、存在感だって言えるんだと思うよ。
結構、その時期に、深い所まで存在感ってなんだろう?って、おいらは考えたな。
ただの目立とう精神の役者は、そのシーンで目立っても、結果的に物語全体では記憶が薄れてしまったりする。
そういうことを何度も目にしていて、やっぱり、全体の中で、存在していくっていうところにおいらは落ち着いたよ。
だから、威圧感と勘違いしちゃってる役者が出てきたときに、思わずおいらは笑っちゃった。
いや、そういうことじゃないだろってさ。
おいらだけじゃないけどね。
意外にも目立たないようなシーンの方が大事だって事だ。
自分が目立つシーンでは既に、出来上がっちゃってる状況にするには。
ここぞというシーンに力を入れるよりも。
それまでのシーンで、自然に存在できるかどうか。
あいつが、どんなことを思っているのか、きちんと興味を持ってもらって状況を創るべきだ。
ここぞというシーンだけで叩きつけても、一過性で終わっちゃうんだ。
多分、今、稽古している部分はそこに関わっている。
ここぞというシーンに関しては、たぶん、監督はそこまで心配していない。
それよりも、それまでのシーンで、ちゃんとそこに実在出来ているか。
それが出来れば、クライマックスにちゃんと向かえるよってことだ。
日常があるからこそ、非日常が立ってくる。
非日常こそ、劇的な瞬間なのだとすれば。
日常を積み重ねることこそ、より劇的にしていく最短の道程だってことだ。
簡単に威圧感を出したり、ここぞという所でたっぷり芝居をしたところで、そこがなければさして瞬間の良さになっちゃう。
より、難しくなるんだけれど。
そういう風に思わないといかん。
そういう風に進まないといかん。
精密な役作りと、その役の持つ日常。生のリアクション。
そこを意識せざるを得ない。
このシーンに命を懸ける!ってのはダメだ。
このシーンになった時には、すでに役ではなく、命をまとっている。
そういう芝居にしなくちゃいかん。