演技力とはまったく関係ないけれど、タレント力と言われるものがある。
それは、テレビを見ていてもすぐにわかる。
長年、お笑いに命を懸けてきた芸人が、あっさりとタレントに存在感で負けていたりする。
笑いについては、そんなに簡単に負けるわけがないのに。
それを簡単に華があるなんて言い方でくくってしまうのは、ちょっとよろしくないなぁと思う。
もちろん、元々持っているキャラクターもあるし、たまたま時代性と合致している場合もある。
そもそも「タレント」という言葉が、キャラクターなのだから。
その中の何割に当たるかもわからないけれど。
セルフプロデュースが長けている人は残るなぁというイメージがある。
自分を自分でプロデュースできるかできないかは大きな差じゃないだろうか。
事務所の方針でというタレントももちろんたくさんいるのだろうけれど。
切り返しの妙だとか、間の使い方よりも、自分の進む道をみつけられる頭の良さを感じる。
自分の求められているモノを理解して、やりすぎない範囲をきちんと把握している。
そういう人は、やっぱり、面白い。
ローテーションのように旬になったり、いつの間にか見なくなるポジションもあるけれど。
この人は、やっぱり大したものなんだなぁなんて感心してしまう事が何度もある。
俳優とタレントのセルフプロデュースの一番の違いは何だろうかと考えると。
それは、パーソナリティにあると思う。
タレントはやはり、パーソナルな部分もある程度切り売りする覚悟が出来ている。
例えば、母親や父親がバラエティ番組に出演したり、自分の部屋にカメラが入ったり。
完全にプライベートな部分まで、ある程度、自分のプロデュースの範囲に入る。
それは、そのタレントの持つ、人柄であったり、そもそもの資質での勝負だからだと思う。
この人はこういう人だという出自が明らかになればなるほど、キャラクターが定着していく。
一方で、俳優と呼ばれる人たちは、基本的にプライベートを明かすことをしない。
役を演じる以上、どんな人というイメージが付いてしまうのは、自分の演じる幅を狭めることになる。
もちろん、こういう役をさせたら日本一というスペシャリストである方が良いに決まっているけれど。
常に悪役を演じる人が、バラエティで歯を見せてしまえば、どこか幻想が終わってしまう。
つまり本人の持つキャラクターは、芝居の世界ではそれほど勝負にならない。
どんな人物になれるか?が勝負なのだから、その人本人のパーソナリティはそれほど関係ないのだろう。
どちらが凄いとかかっこいいとかの話ではない。
どちらも、実は、凄いことをしているんだよっておいらは思う。
でも、実は同じことをしているのかもしれないなぁと感じる。
一方では、自分のパーソナリティをいかに出していくかを考えること。
一方では、自分のパーソナリティをいかに消していくかを考えること。
鏡合わせのようで、実際には、ほぼ同じなんじゃないだろうか?
俳優は自分の演じる役に近づいていくタイプと、役を自分側に近づけるタイプがいる。
特に前者は、演じる役の持つパーソナリティに近づく中で、自分のもともと持っているものと格闘することになる。
人が良い本人が、根っからの悪人を演じる時。
自分の人の好さをどうやって隠していけば良いのか。
場合によっては、自分自身を恨んでしまうことだってある。
なんで、自分がこんな奴なんだ!ってなってしまうことだってある。
タレントのセルフプロデュースは、結局、自分のなりたい姿と、視聴者が見ているであろう自分の姿とのギャップで戦っている。
だから、そういう意味では結局、自分のパーソナルな部分と格闘しているのだ。
これは、俳優が演じる役と、自分との間で格闘している姿ととても似ているなぁと感じる。
どこまでやりきるべきなのか?という自問自答を、両者は繰り返す。
最近の俳優は、それでも、昔の俳優に比べてパーソナリティを出すようになった。
バラエティ番組で笑い、トーク番組で友達がコメントをする。
そもそもどんな人なのか、俳優なんて謎のままの方が良い気がするけれど。
全ての人がそうというわけでもなくなってきているようだ。
一流のタレントのセルフプロデュースには学ぶことが多い。
だからこそ。
俳優のセルフプロデュースも、きちんと考えるべきだ。
自分がどんな俳優になっていきたいのか。
実際には、どんな俳優に見えているのか。
おいらは、技巧派だの、個性派だの、本格派だのっていう括りはあまり好きじゃないけれどね。
そんなジャンルいらないだろって思ってはいるのだけれど。
とは言え、やはり、人から見れば、どうしたってカテゴライズされていくし、チョイスされていく。
自分が、一枚目か二枚目か三枚目か。
自分のどんな部分が評価されてきたのか。
熱いのか冷たいのか。ウェットかドライか。
お客様との距離感がどのぐらいなのか。
人から聞いてでも、自分で理解していくべきだ。
もちろん、ベストな俳優は、本来は、陽炎のようなもののはずだ。
実態がない方が良いだろう。
どんな形にだってなれるし、どんなモノにだって化けてしまう。
日常も含めて、その存在がミステリアスであり、何者でもあり、何者でもない。
掴みどころがなければない方が、本来の俳優という存在に近づく。
そういう部分も残すべきだけれど。
でも、全ての面でそうなることはない。
何故なら、そこに他者の視点が入るし、他者の評価が入るから。
寅さんが渥美清さんの時どんな人なのか知っている人なんて殆どいない。
けれども、渥美清さんが歩いていれば、皆が寅さんと声をかける。
何も明かしてなくても、いつの間にか、陽炎ではなく、実態を持ってしまうのだ。
だからこそ、その実態については、セルフプロデュースしていくしかないのだと思う。
実はデビッド・宮原はそこをすごく考えてくれる人だ。
それぞれの俳優の一番良い所だけは出そうとどの作品でも思っている。
あの人数でそれをやるのだから、凄い事だと思う。
お前の良い所は、そこじゃないじゃん。
そんな言葉を稽古場で何度聞いただろう。
それは、普段から考えている証拠だし、同時に自分で考えるべきだぜという事でもある。
ある意味。
演技においては、技術よりもずっと大事な事だと思う。
自分だけで判断せず。
コミュニケーションが大事なんだろうと思う。
お前の、この芝居好き。あそこ嫌い。
技術的な部分でもこういう評価が出がちでごちゃまぜになるけれど。
必ずコミュニケーションの中に、自分が目指すべき道があるはずだ。
自分が目指したい俳優像だけではダメだ。
それは、やっぱり、セルフプロデュースが出来ていないことになる。
自分がどう見えていて、どこを伸ばすべきなのか。
もっともっと、明確に把握していかなくちゃいけない。