今回の参院選の争点の一つを憲法とする政党もある。
改憲だ、護憲だ・・・と、それこそ、今回の選挙の争点なのだと。
或いは、経済政策についてだとする政党もあるけれど・・・。
おいらの子供の頃から、改憲、護憲というのは毎回言われていたから、おいらなんかはちょっと今更感がある。
どちらにせよ、今一度憲法について、考えるのは悪いことではないけれど。
それもあってか、青年コミック週刊誌の付録に、日本国憲法を付けるらしい。
漫画家のイラストも入ったもののようだ。
日本国憲法は勿論ネットでもいつでも確認できるし、誰だって見れるものだけれど。
中々難しくて堅苦しいから、読もうという気が起きない。
面白いことを考えるなぁと思った。
とても良い事だと思う。
現行の日本国憲法が施行されたのは、1947年5月だ。
終戦が1945年8月だから、約2年の時間を要している。
それまでは、当然、大日本帝国憲法だったわけだ。
まぁ、GHQ占領下だから、憲法以上の存在がそこにあったわけだけれど。
日本国憲法がどのように生まれたのかは、様々な見解と証言がある。
実はとてもそこら辺は面白くて、それを題材にした小説などが意外に好きだ。
人によっては、GHQやマッカーサーから押し付けられた憲法という人もいるけれど。
もちろん、日本人の意見を参考にしていたりもしている。
9条がどのように生まれたのか、証言を探してみると、結構、面白い。
まぁ、当たり前の事なのだけれど、「セブンガールズ」の頃は、法律が全然違っていたという事だ。
ヒロポンを知っているだろうか。
終戦直後、当然、物が少ない時期が続いた。
米や小麦粉などの食料品、石鹸などの生活必需品消耗品。
とにかく数がないから、闇で流れてきてもそれまでの40倍近い値段で取引された。
そうなると、当然だけれど、嗜好品と呼ばれるものはとても高価なものになった。
酒、煙草は、効果で中々手に入らない貴重品になった。
映画の瀬戸内少年野球団でメチルアルコールについての一節があったような記憶があるけれど。
薬用の工業製品であるメチルアルコールを水で薄めて酒の代わりに呑んで目を悪くする人が大勢いたらしい。
その酒やたばこの数がない中、比較的手に入りやすかったのがヒロポンだ。
ヒロポンとは、今なら、覚せい剤の事だ。
ちょっと信じられないかもしれないけれど、ヒロポンは普通に市販されていた。
それどころか、戦地の兵隊さんには支給さえされていた。
余り語られないけれど、特攻隊のパイロットは、ヒロポンを打っていた。
死への恐怖を克服できる「兵器」として、強壮剤ぐらいに思われていたのだ。
終戦直後、軍が大量に備蓄していたヒロポンは市場に出た。
もちろん、安いものではなかっただろうけれど、ものがなかったわけではなかった。
ヒロポンは当然覚せい剤だから、強烈な中毒性がある。
中毒になると、ポン中と呼ばれた。
今で言うならユンケルだとかぐらいの強壮剤のイメージで普通に手に入ったのに。
中毒になってしまうというのは、大変な事だ。
当然、ポン中は奇行が目立ち、或いは死に至るものもいた。
あんなもの手を出すべきじゃないっていう人もたくさんいたはずだ。
今でも栄養剤なんか飲まない人がいるように。
ただ、普通に法律で禁じられていなかっただけだ。
ちょっとひっくり返ってしまいそうになるけれど、1951年の覚せい剤取締法の施行までは合法だった。
戦後6年間も、自由に売買されていたのだ。
当時の愚連隊の話や、ヤクザの話、娼婦も含めて、ヒロポンの話はよく出てくる。
覚せい剤が合法????
それだけでも、ちょっと衝撃的な感じがする。
でも、実際にそうだったのだ。
同じ日本でも法律そのものが違っていたのだ。
そして、一番この作品に関わる法律が「売春防止法」になる。
女性が体を売ることは、違法であるという認識が、当然おいらの中にはある。
けれど、終戦直後、パンパンたちが体を売ることは違法でも何でもなかった。
それどころか、1945年の終戦直後には公娼までいた。
いわゆる、国が雇った娼婦だ。
1946年になるとともに、GHQの指示で公娼制度が廃止になる。
それから、各自治体で、売春防止条例が施行されて行った。
ただし、これはあくまでも条例だし、赤線地帯と呼ばれた地区の中では違法ではなかった。
今も海外では地区によって売春を認めている国があるけれど、日本もそうだったのだ。
売春防止条例から、国の法律の売春防止法になるまでには大変な時間がかかっている。
なんと1957年まで掛かっている。
実際に、性産業で働く人たちがいたのだから、ハイダメ!とはならなかった。
実際に刑事処罰が行われるようになったのは1958年からだったというから、終戦から実に13年も掛かっている。
60年以上経過した現代の日本人には、とても驚くような事だと思うけれど、これは本当の事だ。
1970年代までアメリカ占領下にあった沖縄では、売春防止法が事実上なかったらしい。
そうなってくると、おいらが生まれた年ぐらいまで、日本人の職業売春婦がいたという事になる。
もちろん、今でも実質は売春である性産業がある。
なぜ黙認されているのか?という疑問を誰だって一度ぐらいは持ったのではないだろうか?
それには、実は長い紆余曲折の歴史がある。
吉原など、遊郭は長い歴史を持ち、組合もあった。
貧しく売られた女性を守っているという意識のある老舗もあったという。
なんとか、この世界から、綺麗に抜けることが出来るように教育した店もあったらしい。
どうしても悲惨な女性の世界だと思われがちだけれど、数百年に渡る置屋の歴史は、想像以上に分厚い。
困窮した社会の底辺にいる女性を、NPO法人もなかった時代にどう独り立ちさせるか。
夜鷹と呼ばれた街娼になんてならないように、管理していたのだろう。
別に肯定するつもりはないけれど、現代だってある一定のそういう部分があるのだと思う。
簡単に白だ黒だと言えない、人生の部分があるということだ。
更に言えば、妻帯者が自分の甲斐性で、娼婦を買う事も、それほど悪いことではなかった。
当然、夫人には、嫌がられただろうけれど、別に普通の事だったのだ。
そこに、娼婦がいて、そこで粋に遊ぶ男たちがいるというのが普通の事だったという事だ。
ただ、当然、娼婦たちが社会的弱者だったことは間違いない。
それは江戸時代からずっと変わらない。
裕福な娼婦がいたわけではないはずだ。
それに、売春防止条例以降、少しずつ売春は良くない事だという社会通念が広がっていった。
防止法施工の頃には、すっかりそういう風潮になっていた。
だから、「パンパン」という蔑称は、体を売るからだったわけではない。
敗戦国の女性が、占領軍に体を売っているからだ。
それも置屋に入っているわけではなく、街に出て客を取ってくる。
そういう街娼を揶揄したのが「パンパン」だった。
同じ国だけど。
法律が違ったのだから、もう、違う国ぐらいの印象だ。
もちろん、終戦直後を考えれば、戦中を考えることになるし。
戦中を考えれば、戦前、明治、幕末、江戸時代・・・と、どんどん遡ってしまう。
連続した国の流れがあるわけだけれど、さすがに70年前で、法律も違ったとなれば、そう思っても仕方がない。
覚せい剤も売春も合法だった頃の映画を製作するという事だ。
その頃の社会通念の中で生きていた人を演じるという事だ。
現代の発想だけでは絶対におっつかない。