2016年07月28日

リフレイン

リフレインと言う言葉は音楽用語だ。
昨日のブログに突然入っていたから、わからない人もいたかもしれないと思った。
同じフレーズを繰り返すことをリフレインと言う。
ちなみに、ギターリフという言葉なんかで使われる、リフというのもある。
リフも同じ繰り返しなのだけれど、どうやら、ロックの世界で生まれた、短い旋律のリフレインのスラングらしい。
繰り返すという意味ではあまり変わらない。
曲全体のイメージを決定するのがリフだとすれば、曲全体の構成に関わっているのがリフレインということになるのかな。

デビッド・宮原はバンドでメジャーデビューもしているように音楽畑にもいる。
だから、曲も書くし、詩も書く。当然、楽器の素養もある。
ダンスグループにもいたことがあるから、当然、体でリフレインの持つ力を理解している。
例えば、曲で言えば「サビ」。
イントロにサビのメロディーを入れて置いたり、何度かサビを繰り返した後に、転調してサビを重ねたり。
同じメロディーを、様々な形でリフレインしていくことで、曲の構成が出来ていく。
当然、ダンスでも同じ振り付けを、リフレインしたりしたはずだ。

舞台と言うのは一回性のものだ。
もちろん、複数回、観劇してくださるお客様もいるけれど、多くのお客様にとって一回だけの観劇だ。
その一回で、どうやって、物語を伝えていくのか。
後で確認することも出来ない、生の舞台の台本の技術として、リフレインを使っている。
ただ物語が進んでいくだけであれば、前半のシーンを忘れてしまうかもしれない。
或いは、あっという間に通り過ぎて、意味が解らないままになってしまうシーンもあるかもしれない。
・・・というよりも、それが当然の事なのだと思う。
だから、同じようなシーンを何度か繰り返していく。重ねていく。
前半の1シーンだけで理解してくれると最初から思っていないのだ。
繰り返すことで、少しずつ、状況を重ねて理解していくことを目指している。
実は、役者にとっては、とてもとても困難な作業だ。
なにせ、同じようなシーンを何度か繰り返すから、自分が今、どのシーンか一瞬見失ったりする。
同じようなセリフが出てくるから、ごっちゃになって、頭に入りづらくなったりする。
そういうことが、実は、デビッド・宮原の台本を演じていると頻発するのだ。

一番わかりやすいのは、笑いかもしれない。
同じようなギャグを、何度か繰り返していく。
最初に演じた笑いが、最後には大きな笑いになっていく。
繰り返すことで、その笑いの本質をお客様がどんどん理解していくのが解る。

一方で、わかりづらいのが、シリアスだ。
実は、シリアスシーンでも、何回も同じような意味のシーンを繰り返している。
最近なら、ゲリラの舞台で、ゲリラが人質に銃を向けるというやり取りを何度か繰り返した。
徐々に緊張感を緩めていきながらも、やり取りの内容はじつは、補足の繰り返しだったと思う。
劇団初のミュージカルでも、誰々が訪ねてくるというのを延々1時間繰り返した。
もちろん、意味の補足の為に繰り返すだけではない。
後半、クライマックスでは、一気に形を変えて、リフレインをする。音楽で言えば転調に近い。
ゲリラの作品では、ゲリラが人質に銃を向ける最後のシーンをクライマックスとした。
それまでとは、違った形での緊張感と、銃を向けるという行為の意味の反転があった。
ミュージカルでは、クライマックスに、裏切り者が訪ねてきた。
それまでの訪問者とは、まったく異質の訪問者が最後の最後に現れる形で、クライマックスを構築していた。
恐らく、どちらの作品でも、最初やその次の、同じようなシーンを明確に覚えているお客様はいないのではないだろうか。
それぞれのシーンは短く、意味あるセリフも1つか2つしかない。
ただ、繰り返すことで意味を補足して、物語の構造を決定する要素になっている。

テレビドラマの泣きめし今日子でも、やはり、リフレインを使用していた。
河原、藤井が、毎回登場しては、リアクションを残していく。
ギャグと言えばギャグだけど、ちゃんとラストでは、物語の動きに合わせたリアクションになる。
最初は、ただ一瞬出てくるお馴染みでしかないようだけれど、実は物語の収束の補足の役割になっていた。

こういう物語の構造を実は、余り役者が考えることはない。
演じ手にとっては、それほど重要な事ではないからだ。
単独主演で、物語の中心にいれば、意識する場合もあるという程度だ。
たまたまおいらは、劇団参加前から、台本を書いたり、台本構造の研究をしていたから気付いたに過ぎない。
演じる側にとっては、だからなんなの?という感じのはずだ。
作家が客観的にお客様に物語を届けるにはどうしたらいいかと考えた技術であって。
主観的な俳優には、あまり、重要性がないからだ。
むしろ、俳優は、たった一回の、印象的なシーンを演じたいという欲求がある。
いつの間にか繰り返していることに気付く俳優だっているはずだ。

映画の手法を見ると、実はこのリフレインを使用している作品がとても少ないなぁと感じる。
寅さんのようにシリーズものであれば、お馴染みのシーンがあるけれど、作品内で繰り返すというのは余り見ない。
どれだけ印象的なシーンを作って、お客様の記憶に留めるのか・・・に徹底しているように思う。
あっても、オープニングとエンディングの2つだけリフレインさせるぐらいだろうか。
ないわけではないけれど、やはり印象的なシーンを作る方に重きを置く傾向にある。
ちなみにハリウッドのエンターテイメント作品だけは、リフレインを使っている。
短いシーン、短いカットも多いし、テンポも速くて、情報量が多いから、必要なのだと思う。
今回の「セブンガールズ」で、初稿が上がる前に、ここの部分をどうするのかなぁとおいらは思っていた。
印象に残る強いシーンを構築するのか。
それとも、劇団でやってきたように、リフレインすることで、作品世界を構築していくのか。
どっちでいくんだろうなぁと漠然と考えていた。
恐らくそのどちらを選択することも、デビッド・宮原は出来る。
一つのエピソードを濃くして、印象的にすることなんか、得意のはずだ。
だから、初稿を見るまで、映画シナリオにどうやって書き直すか、楽しみにしていた。

結果的に、劇団のスタイルが一番出る形を選択していた。
初稿を見て、納得した。
その代わり、これを映像にしていくのは大変だぞと、再び覚悟したけれど。
同時に、どこか安心もしていた。
これが一番、この作品にとっていい形だと思ったからだ。

セブンガールズと言う作品の最大のリフレインは「星がいっぱいでも」だ。
娼婦が歌うシーン、踊るシーン、或いは、劇伴として流れるシーン。
繰り返し、同じ曲が作品の中で流れる。
そして、どれ一つとして同じ形で流れることはない。
折れそうになった誰かに歌ったり、強がるために歌ったり、歌えなかったり。
リフレインするたびに、その曲の持つ力が、増えていくことが分かる。
だからこそ、クライマックスのあの曲があって、エンディングのあの曲が生まれる。
恐らくリフレインの持つ力を肉体で理解しているからこそ書ける作品だ。

思えば、旗揚げ公演から、この手法を得意としていたと思いだす。
何度も何度も名前を呼び間違えるということを繰り返していた記憶がある。
おいらは、出演していなかったから、あくまでも観劇での記憶だけれど。
その手法が、どんどん強化されて行ったのだと思う。
お客様の反応を見て、作品に対する評価を見て、必要な事だったのだと思う。

映画と言う別の表現手法で。
リフレインという大きな力を使用する。
それは、どんな映画を生むだろう?
ジェットコースターのようなテンポでも強い印象を残す。
そんな作品を創ってしまうのだろうか。

それが出来るのであれば、おいらは、興奮してしまう。
それって、誰でにでも出来ることじゃないじゃないかと、興奮してしまう。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:20| Comment(2) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月27日

何をもって天才と言うのか

おいらがデビッド・宮原と出会ったのは、劇団に入る前だった。
その時はなんとも掴みどころのない、感覚で喋る人だなと言う印象だった。
本人は、とても理路整然としているつもりなのに、出てくる言葉は、感覚の言葉。
その違和感にとても興味を強く持った。
芝居を教えるという立場の人が何人かいる中で、おいらは、疑念の塊だった。
その最後の最後に出会ったのがデビッド・宮原で、芝居は数字で割り切れるものじゃなくて、ちょっと不思議な現象ぐらいに捉えていた。
多分、向こうからすれば、やけに脂っこい、変わった奴が来たなぁぐらいだったと思う。

劇団の旗揚げを手伝ったりしているうちに、おいらは別方面から声がかかった。
うちでやらないか的な誘いだったけれど、なんだか、違和感を覚えた。
そこで、相談したのがデビッド・宮原で、そのまま、なし崩し的に劇団の稽古に参加するようになった。

その時すでに、おいらの耳に、「デビッド・宮原は天才だから・・・」という言葉が耳に入っていた。
何人かがそれを口にしていたし、何人かがそれを信じていた。
ただ、どこが天才的で、何を評価している人たちなのかさっぱりわからなかった。
ただ闇雲に「天才」という言葉を使っているだけなんじゃないかと思っていた。
おいらも、天才と呼ばれていた頃があって、それは、まあ知能指数的な事だったんだけれども。
たまたま、ちょっと驚くようなIQが出ちゃっただけでなんだから。
でも、恐らく、そういうものとは違って、何かを天才と言っていた。

誰かが口にした「天才」という言葉の尻馬に乗っているだけの奴もいた。
でも、ああ、この人は天才だと口にしながら、何を天才と言っているのか自分でわかってないんだな。
そんなことを何度も何度も思った。
多分、おいらは「天才」という言葉にアレルギーみたいなものがあって、どこを天才とするのか考えてしまう癖があるからだ。
本当にね。今でも、どこを天才と思っているのか聞きたい人って何人もいるよ。
雰囲気で口にしてるんじゃないかなぁって思っていた。

何故なら、おいらはおいらで、デビッド・宮原は天才だなぁと、しっかりと確認したからだ。
最初に参加した「吉宗暗殺」という作品の中では、実はまだよく何が天才かも理解していなかった。
ただ、意図だけはきちんと自分で理解してついていかないといけない!という思いだけだった。
それが、一瞬で、ああ、天才だなぁに変わった。
一言で言うなら、「違和感に対する嗅覚の天才」なんだということに気付いた。
あ、これはなんかがおかしいな?ということに、とても鋭い嗅覚を持っていることを発見したからだ。

例えば、デビッドさんの創った歌の歌詞には、変な発音がない。
メロディに言葉を乗せるのだから、日本語の発音通りに歌詞を乗せるのは難しい事だ。
音楽を優先すれば、当然、普段口にする言葉とは違う発音で歌われることはよくある。
実際に、メジャーで売れている曲だって、そうなのだから。
でも、デビッドさんは自分が歌う歌にそういう違和感を殆ど残すことがない。
このメロディにこの言葉を合わせるのはおかしいとすぐに判断する。
歌の歌詞が一番わかりやすい。

舞台の台本もそうだった。
おいらは、デビッド・宮原以前の演劇体験がある役者だ。
自分でもやってきたし、色々な稽古場に顔を出したりもしてきた。
そういう意味では演劇畑の常識で硬直している部分もたくさんあった。
でも、そんな常識を軽々と超えていく台本を書いていた。
演劇の世界にいたこともあるけれど、常識にまで染まっていないから・・・とも言えるけど。
実はそれだけじゃなくて、演劇の持つ違和感みたいなものに気付いて、あえて切り込んでいた。
シアタートラムという劇場で、本来は舞台裏になるスペースをもったいないと演技エリアにした。
おかげで、役者は、上手から下手への移動だけで、一度地下3階まで階段で降りる羽目になったのだけれど。
あんなのは、通常の演出家や舞台人なら、当たり前にあり得ない選択だった。

それは性分のようなものかもしれない。
自然と違和感に気付いてしまうのだから。
そもそも常識を疑ってしまうというか、無駄に対する潔癖症と言うか。
無駄な部分は徹底してギャグにしてしまうところが、視点を表している。
ただ、そこに天才性があるのだと確信した。
デビッド・宮原が自分が感じた違和感を完全に撤去した時、その表現は、途轍もなく美しいのだとわかった。
この美しさを目指しているのか。
おいらにとっては、大発見だった。

おそらく漫画原作をしていた頃には、漫画の常識への違和感と戦っていたと思う。
おそらくエッセーを書いていた頃には、作家の常識への違和感を感じまくっていたと思う。
そして今、映像制作の現場に行っても、映像制作の違和感を感じまくっているんじゃないだろうか。
なんで、こう撮影するのが常識なのかちょっとよくわかんねぇな・・・っていうのがきっとたくさんあるはずだ。
プロの仕事をする人たちをリスペクトしているから、立てることもするのだけれど。
立てながら、なんか、違和感があるなぁと思っていたりもするんだろうなぁと思う。

だから、今、映画のシナリオや舞台の台本を書いていて、言葉の違和感とはとても戦っていると思う。
そもそも、日本語の日常会話って、本来はとても散文的なものだ。
擬音なんかもたくさん入るし、セリフのスピードは日常会話から見れば遅すぎる。
喫茶店に行って、耳をすませば、どんな会話も、映画や演劇よりも圧倒的に早い。
考えながら喋っているにもかかわらず、矢継ぎ早に言葉は生まれる。
相手の回答を予測しながら会話するし、そこに微細な感情も乗ってくる。
だから日常会話には矛盾も多いし、散文的にもなるし、擬音なんかも多くなる。
ああ、えっと、だから・・であったり、口癖も頻発していく。
物語を伝えなくちゃいけない以上、言葉は選ぶけれど、会話なのだから会話にしたい。
その日本語の異物感を感じながら、作品を書いている。
舞台ならともかく、映画であればなおのことだ。
映画も嘘の世界だけど、舞台よりもずっとリアルに近づいている。
この言葉の会話の違和感は、違和感として残るんじゃないか?と疑っているはずだ。

多分、本当は視点だって、どんどん動かして、カメラもどんどん動かして。
会話も、会話としてリアルにして、その上で、物語が成立するような。
そんなことが本当はしたいんだろうなぁというのを言葉の端々に感じる。
もちろん、世の中にそんな映画はないんだけどさ。
結果、物語が瓦解して、わかる人にしかわからないみたいな方向に行くタイプでもないから。
そこまで、徹底するっていう事はないのだろうけれど。

今はまだ作家モードで、完全なる監督モードに入っていない。
だから、今、気にしているのは、恐らく言葉が持つ違和感だ。
日常会話の持つテンポを、シナリオで構築できるように考えている。
だから、助詞や助動詞だけの変更や、ト書きだけの変更が、たくさん、入ったのだと思う。
シナリオを校了とした後、今度は監督モードに入っていくはずだ。
そこに本当は、時間を使ってほしいなぁとも思っている。

今、映像制作にいくつか関わっていて。
ああ、この感じがデビッド・宮原の映像なんだよ。と、おいらが納得した作品って実は、ない。
ないっていうのは、おかしな話だけれど、あるけれど、薄い。
泣きめし今日子だって、デビさん節はあるけれど、まだどこか一般的にしているはずだ。
2になって、やっぱり少し濃くなったなって思うぐらいだ。
やっぱり、ヒーローMONOのオープニングや、ラブストーリーに罪はないの方が、ずっと濃かった。
目まぐるしいテンポと、視点の変化、動きのある映像、ついていくのがやっとの情報量と、リフレイン。既視感。
この人にはこんなふうに世界が見えていたのかと驚いた記憶がいまだに残っている。
普通の映像じゃありえないよなという常識を軽く超越した映像だった。
Youtubeで遊ぼうぜと、カメラを持った時に、時々、そういう顔を見せるけれど。

今回の映画企画で、それを全てやることはもちろんできない。
当然、役者の表現があって、撮影スタッフのカメラワークがあって、助監督の進め方があって。
その全てをリスペクトしているんだから、意見をどんどん吸収しながら撮影すると思う。
それでも、おいらは、どこか期待している。
とんでもないキレを持った、あのとがった表現がどこかのシーンで出てくるだろうと。
そして、その表現が、綺麗とは違った意味の「美しさ」を持っているだろうと。

間違いなく、この人は天才だから。
これは人間性であったり、関係性であったり、そういうものとは一切関係ない。
人間として信じているとかいないとか、これまでの歴史とか、それは完全に別の話。
そんなことを言い出したら、面倒くさい所も、厭なところだって、当然あるからさ。
自然と人が集まってくるとか、そういうのとも違う話だ。
つまり純粋にアーティストとしての話だから。

おいらは、完全に信頼している。
この人の持つ、違和感を信頼している。
この人の持つ、美意識を信頼している。
天才と確信している。
だからこそ、本当に自由に自由に作品を創って欲しいなぁと、何度も思ってしまうのだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:54| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月26日

頭の中に流れている映像

打ち合わせの日だった。
プロデューサーが並び、監督がいて。なぜかおいらもいて。
シナリオの第二稿が上がったタイミング。
じゃぁ、これを本当に映像化するとしてどうやって撮影するのか。
そういう話になった。

もちろん、これは最初の企画段階からわかっていたことだ。
これをじゃぁ、そのまま映像にするとすれば何が必要で、どんな方法があるのか。
様々なアイデアを駆使しないとダメだし、信じられないようなこともいくつか重ならないといけない。
ましてや、現代劇ではないし、単独主役ではなくて、群像劇なのだ。

おいらの中では、監督が稽古場や普段話している内容から、なんとなく見えていた部分はある。
でも、ちゃんと口頭で、こうしたいというのはまだ聞いていなかったから、どう伝えるかなぁと思っていた。

結果的に、監督は、こんな映像でやる方が良いと思うんですよと言うイメージを話した。
おいらは、即座に、「それは、その方が良いと思う」なんですか?「そうしたい」なんですか?と確認した。
そして、その言葉の監督の返答は、まさに即答という奴だった。
「もちろん、そう撮影したいんだよ」
なんとなく、その方向かなぁとかではなくて、そうやって撮影したいのだという事。
映画全体に流れるテンポ感まで監督の頭の中には既に構築してあるという事。
そして、それは、やっぱり作品の方針になることなんだって確定した。

おいらは、腑に落ちた。

もちろん、それまでも、同じようなことは口にしていた。
稽古場で、ぽろっと口にすることもそういう方向だったし。
本読みの日の後の打ち合わせでも、その内容は監督なりに伝えていた。
いや、そもそも最初の打ち合わせでも、こういう方向で考えてます。こういう方向で今、書いてます。
そんなことは言っていたのだけれど・・・。
それが、今日、はっきりと撮影方針に確定したという事だ。

2時間以上の打ち合わせを終えて。
監督と二人で喫煙所に向かう。
監督は最初からブレていない。
芝居にかかってるんだ。芝居を撮影したいんだという事。
そして、この撮影方法は劇団だからこそ出来ることなんだという事。
この映画のテンポ感を大事にしている事。
そういう話をしていた。

おいらは、監督に、この話は8月に入って演出に入る前でもいいので、役者に話してほしいと伝えた。
そんなの言わなくても、役者はわかってるかもしれないし、流して聞く役者もいるかもしれないけれど。
それでも、やっぱり、話してほしい撮影方針だとおいらは思った。
いわゆる普通の映画を観て参考にしている役者もいるし、イメージしている役者も多い。
そのままでは、何かがずれていくような気がするんだな。
デビさんの頭の中の映像を口で全て説明するのは実は不可能なんだけれども。
もうそれは出来上がればわかるだろ!って話ではあるのだけれど。
でも、おいらは、この人のこのセンスを誰よりも信頼していて、その期待がマックスになったから。
共演する仲間たちにも、この方針をもう一度理解してほしいなぁって思った。

喫煙所で、何本の煙草を灰にしながら。
デビッド・宮原の映像撮影の、おいらにとっての最初の体験の話をした。
もうカレコレ15年ぐらい前になるのかもしれない。
初演の「ヒーローMONO」という舞台作品。
劇場にたまたまプロジェクターがあったから、オープニングで映像を流したいと突然言い出した。
劇場で撮影できるものなんか限られているし、編集環境もないのに、何を言い出すんだよと、戸惑った。
それでも、ずっと、この人がやりたいという事は、無茶だと思えることもなんとか準備したつもりだ。
だから役者を集めてカメラを準備して、段取りを組んだ。
そして、一発録り、ワンカットで、しかも登場人物が全員登場する動きのある撮影をした。
結果的に、その映像は舞台本番で流れ、大好評だった。
はじめてデビッド・宮原が、映像を作成している姿を見て、おいらはつくづく思ったよ。
準備している間は、そんなの無理だよと思わされるんだけど。
頭の中に流れていたその映像を観て、納得させられちゃったんだ。
あの映像には、監督の映像への根本的な何かが詰まっている。
あの時のような頭の中の映像をそのままアウトプット出来る環境があれば。
また、きっと、おいらたちは驚かされるだろうと思う。

もちろん、まだまだ課題がある。
来週には美術監督や美術スタッフとロケハンに向かう。
監督も来てくれる。
結果的に、ここでは無理だねとなれば、もう一度、撮影現場を探さなくてはいけない。
ひょっとすれば、用意した廃材も、朝陽館の建具や装飾品も半分以上無駄になる可能性もある。
でも、それはどちらでもおいらは構わない。
監督や、美術監督が、そこでイメージを共有できるのかできないのかだけがおいらの判断基準だ。
どちらかが、違うなら、おいらはあっさりと次に向かう。全然それでも構わない。
多分、良い作品を創るのは、何かを共有出来た瞬間だからだ。
覚悟の上だ。

帰宅後、少し休んだら寝てしまった。
起きて、作業に入ると。
音楽監督の吉田トオルさんからメッセージ。
その場で、第二稿を転送した。
気にかけてくださっている。
それも、打ち合わせの夜なんて言うタイミングで。

そうさ。
もしかしたら、本当の意味で、今日から動き出したって事なのかもしれない。
監督はシナリオを書いていたし、おいらはおいらで、色々な準備を重ねてきたけれど。
方針が決まることは、チームとしての第一歩なのだから、チームとして動き出したのは今日からなんだ。

進め、進め!
この一歩がいつか、歩みとなり、駆け足になり、ダッシュになる。
気合で乗り切れないこともあるけれど、情熱だけは持っていなくちゃ駄目だよ。
それが、絶対にここぞという場面で効いてくるから。

改めて、おいらはそう感じている。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:54| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする