2016年07月31日

美味

土用の丑。鰻を食す。
最近は有名になったけれど、この日に鰻を食べるのは、平賀源内の発案とされている。
夏場の鰻は旬ではなくて、なかなか売れない店主が相談したところ。
丑の日は「う」の字から始まる食べ物を食べたほうが良いという風習を利用して、店先に「本日、丑の日」と張り出したというのである。
今では、土用の丑に鰻を食べれば夏風邪をひかないだとか言われるけれど。
まさか、販促のために考え出された誰かのアイデアなんて、誰も思わない。
それも、実は旬ではないだなんて・・・。
もっとも、今は養殖も多いし、この日が一年で一番売れるから、この日が一番味がピークになるようにしていると思うけれど。

そこまでわかっているけれど、鰻を食す。
別に夏風邪どうこうでも、縁起が良いとも思っていない。
年に何度も食べられないけれど、たまに食べたくなる鰻。
こんな日に食べないと、ほとんど、食べないしさ。
それにしても、通説が本当だとすれば、平賀源内という人は素晴らしいアイデアを持った人だ。
購買層が求めていることをなんというか、とても理解している。
鰻なんかは、やっぱり、何かのキッカケというか、そういうものがないと手を出さない。
この日は食べる日だよって言われてしまえば、納得してしまう。
本当に、素晴らしい発明王だ。
相談した鰻屋さんはどう思っただろう?
そして、そのアイデアが、100年以上経過した今も有効であることをどう思うだろう。

多分、鰻屋は思ったはずだ。
もっとうまい鰻を作ろうとか。
夏場は、鰻じゃない料理も出した方が良いのだろうかとか。
涼しく食べられるような新メニューを考えようとか。
この際、店だけじゃなくて、屋台や弁当も考えようとか。
鰻屋の考えられる範囲で、アイデアを絞って絞ってだったのだと思う。
それが、全然違う発想が来て、有効だったのだから、さぞかし驚いただろうな。

今日、めちゃイケを観ていて、もうただただ号泣していたのだけれども。
山本さんは、やっと仲間に会えた時に、芸人の流儀を選択していた。
多分、芸人は芸人らしく、皆と再会しなくてはいけないという範囲で考えた結果だったのだと思う。
けれど、求められていたのは社会人としての態度だった。
芸人であるけれど、同時に社会人でもあるのだということに考えが至っていなかった。
もちろんそれはカメラの前だったからなんだと思う。
それまでに流れた映像では、社会人として反省して地道に活動している姿が放映されていた。

鰻屋にしても、芸人にしても。
自分の生きる世界の中だけで考えれば、その中でしか生まれない答えに辿り着く。
それは、仕方のないことで、当たり前の事だと思う。
誰だって自分が生きる世界で苦しんで、悩んで、アイデアを絞り出すのだから。

そう思った時。
役者という存在はなんて不思議な存在なのだろうと思った。
武士を演じたり、サラリーマンを演じたり、病人を演じたり。
それぞれを演じながら、その世界をみつけていくのが仕事なのだから。
その世界ではその世界でしか生まれない発想がある。
その外側に存在しながら、その内側に入ろうとする。
鰻屋に感情移入することも、芸人に感情移入することも出来なければ、演じることが出来ない。
それは、相手の気持ちがわかるという事ではない。
相手の気持ちの筋道が解るという事でないといけない。
どうしてそういう考えに至るのかがわかるぐらいじゃないといけないということなんだから。
そういう意味では作家も同じだ。
その人物がどんな人物か、どうしてそういう考え方なのか、そこに至らないと描写できないのだから。

めちゃイケのラスト。
極楽とんぼのケンカコントが始まった。
それが、なにせ、おいらは一番泣けた。
笑いだから、涙なんか流していないけれど。
2人でコンクリートまみれになりながら喧嘩していた。
2人はどんな思いで、あのケンカコントをしていたのかなぁ。
もちろん、謝罪のくだりも泣けてしょうがなかったんだけどさ。
これ、ずっと、やりたかったんだなぁ・・・って思ったらね。
もう、涙腺崩壊だった。

たくさんの思いがある。
たくさんの立場がある。
人それぞれの生きる世界がある。
そのどれもが、同じ方向を向いているわけではない。
全てが違うから、いつも、ほつれていく。
ほつれても、ほつれても、誰かが何かが何とかする。
現れて、ほどいていく。

そのほどける瞬間こそ、たぶん、目指すものだ。
演劇や映画や、お笑いや、おそらく全てのエンターテイメントの目指すものだ。
最後、ネタで終わったのもきっと、そういうメッセージなんだって勝手に受け取った。
きっと、2人でお笑いライブをしながら、色々な事がほどけていくんだろうなぁ。


土用の丑。鰻を食す。
平賀源内のアイデアに乗ってしまったおいらだ。
ありがたいアイデアを出してくれたものさ。
おいらなんかにゃ、とても、思いつかないアイデアさ。
鰻は美味い。

ごちそうさま。


posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:22| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月30日

山を登るように

7月が終わる。
8月に入れば、いよいよキャスティングから演出に移行していく。
撮影までの期間はあるけれど、稽古時間だけでみれば、そこまでない。
一つのシーンごとに使える時間はそこまで多くない。
それでも、仕上げていかないといけないのだ。

実は、オーディションも予定している。
劇団員だけではなくて、数人だけれど。
概要をまとめようと言ったまま、中々、ここだけは進まない。
劇団員は全員出演して、なおかつ、他にも募集しようとしているのだ。
つまり、本当に大人数の出演者になる。

先日の打ち合わせでも、Pが冗談で某映画よりも登場人物が多いと苦笑していた。
大人数が出演するというだけで、実はとんでもないことなのだ。
恐らく劇団員だけが出演したとしても、異例の多さだ。
映画が通常2時間であれば、その時間内で届けることの出来る情報量は限られている。
だとすれば、登場人物が少なければ少ないほど、人物を深く描ける。
撮影進行も、人数が少ない方が、よりやりやすくなる。
低予算映画となればなおさらで、人数的なパワーはエキストラ出演シーンなどで構築するのが通常だろう。
最近の映画は、予算が大きい映画でも地域振興で、地域で撮影して、ボランティアエキストラを募集することが多いようだ。
人気俳優が出演しているほど、ボランティアが集まるなんて話も聞いた。
自分の街で、自分の参加した映画が出来るというのは、大きな文化事業になるのだろう。
それは、なんていうか、本当に素晴らしい地域振興活動だと思う。

大河のような作品であれば、合戦シーンなど登場人物がどんどん増えていくけれど。
人物を掘り下げる数にはやはり限界があるのだ。
そういう意味でもこの作品は、特殊で、最近みかけることが珍しい作品になるだろう。
群像劇。
いくつもの人物を描くことで、作品のイメージが出来ていく作品だ。
日本で一番有名な偶像劇ってなんなんだろう?やっぱり七人の侍なのかな・・・。
名作中の名作だけど、上映時間もとても長かったし、比較対象にもならない。
肉体の門でも、他の作品でも、娼婦の作品は群像劇が多いかもしれない。

なんというか、作家や映画監督は、いずれ群像劇を書きたいと誰もが思っているのではないかと思う。
一人の人物を掘り下げて書いている作家でも、ある瞬間に、多くの人物が登場する作品を書く。
物語を構成していく作家にとっては、群像劇ほど書きづらいものはないと思う。
何故なら、一人の人物を掘り下げる作業と同じ作業を、複数の人数にするからだ。
実は人物の掘り下げは、登場人物の数で浅くなったりすることはないのだ。
だから、群像劇を書くのは、作家にとっては大きな挑戦になっていく。

北方謙三さんがハードボイルド作品を手掛けていたのだけれど。
ある瞬間から、三国志、水滸伝などの中国歴史活劇を書くようになった。
すでに数十巻に及ぶ大作を何作品も出しているし、今も継続中だ。
おいらはいくつか読破しているのだけれど、毎回最初のページを読むと驚いてしまう。
最初に登場人物一覧がついているのだけれど、それが4ページぐらい続いていたりする。
それも、全て、中国名だから、漢字二文字だったりするのだ。
そして、読んでみて、もっと驚くのはその一人一人に詳細な人物設定がなされていることだ。
なにせ、この登場人物がこんなこと言うだろうか?という違和感が一切ない。
水滸伝なんて108人の主人公がいる大作なのだ。
それにとりかかろうというのだから、やはり、作家にとって大きな山に立ち向かうのと同じ作業なのだと思う。

デビッド・宮原は何年も劇団で作品を書いてきた。
はじめは、主演が一人の作品を書き続けていた。
劇団員の数から、登場人物は多かったけれど、群像劇と言えるものではなかった。
そういう特殊な環境から、役者一人一人にもっと掘り下げた役をやらせてみたいという思いもあったのだと思う。
どんどん作品は群像劇になっていった。
だから、一人を掘り下げた作品も、当然書いてきた人だ。
その人物描写をおいらは演じることで何度も体感してきたけれど。
主演の頃と、今とで、役作りや台本上の設定量が変わったという印象がない。
あるとすれば、サクセスが省略されている場合があるぐらいだ。
そのサクセスも、他の役が代わりにどこかのシーンで演じてくれていたりする。
多分、今、一人を掘り下げた作品を書くのってどうなんですか?と聞いたら、楽だろうなあって言うだろう。
今の何倍の労力で書いてしまうのではないかって思うぐらいだ。

7月が終わる。
いよいよ演出に向かっていく。
それぞれが覚悟しなくてはいけない。
少なくても、作品の事を考えなくてはいけない。

群像劇が群像劇たらしめるとすれば、それぞれが作品の一部となれるかどうかだからだ。
自分が作品の中でどんな役割を演じるのか、それぞれが理解して覚悟できるかどうかだからだ。
主役と同じだけの、設定量が用意されているからだ。
そして、自分以外の役やシーンについても、どこまで理解できるかだからだ。

それが出来た時。
こんな群像劇はそうそう創れないし、他の誰も書けない。
そんな作品になると、信じている。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 04:40| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月29日

自問自答の夜

梅雨明け宣言が出た。
ここ数年は梅雨明け宣言直後に雨の日が多いけれど。
今年はどうなんだろうか?
気象庁が発表する梅雨明け宣言だけれど、空も発表しているような日だった。
夕焼け。ピンクの雲が一面に広がって、夏の風が吹いていた。

夏がやってくる。

既に学生たちは夏休みに入っている。
電車に乗っても、街に出てもそれはすぐにわかる。
中学生の女の子がへそを出すような格好で自転車に乗っている。
なんというか、世の中もすっかり様変わりしたもんだ。
今の学生の夏休みって、どんな感じなのだろう?
多分、おいらたちとは、ちょっとずつ違うんだろうな。

朝早く起きてさ。
ラジオ体操に行って、ハンコを貰うんだよ。
帰って来てから朝ごはんさ。
テレビじゃ、甲子園が延々と放送されている。
広島の日、長崎の日、終戦の日。
それぞれ、特番が放送される。甲子園でもサイレンが流れる。
虫を取ったり、川に入ったり、海に入ったり。
帰宅したら、麦茶をがぶ飲みするのさ。
日に焼けすぎて、ボロボロになった肌をヒリヒリさせて、そのまんまバタンQさ。

最近の夏は、昔よりもずっとずっと暑くて、外で走り回るのも大変だ。
今の子供たちは、皆、肩から水筒をぶら下げてる。
おいらたちの頃は、水筒なんて持ってなかった。
公園の蛇口の水をそのまま飲んだりしていたな。
あれは、あれで美味かったんだけどな。
日射病なんてのはあったけど、熱中症なんて言葉はなかった。
蝉が暑さで死ぬようなことはなかったもんな。

生きているだけで、たくさんのことを諦めてきたはずだ。
小さい頃は、世界最強になろうなんて、一度ぐらいは考えたはずだ。
プロ野球選手になりたいとか、サッカーをやりたいとか。
全部100点取りたいとか。
他の誰よりもカブトムシを捕まえたいとか。
一番になりたいって気持ちに何回もケリをつけてきた。
大きくなると、あの学校に行きたいとか、あの子と手を繋ぎたいとか。
でも、自分だけじゃどうにもならない事にも何度もぶち当たっていく。
そうやって、いつの間にか、色々なことを諦めたり、色々なことを悟っていく。
それでも、自分の中に何かが残っていたりする。
それはもう、一番を目指すとかそういうことでもないし、「欲しい」という感覚ではないものになってる。
既に、自分の生き方というか、スタイルに近い何かが生まれている。
そして、本能的に、ここだけは折れてはいけないんだよという何かをいつの間にか持っている。
人によってはそれを硬直というかもしれない。
柔軟であるべきだけど、ブレナイことも大事だなんて、自己矛盾を結果的に抱えながら生きることになる。
そうやって歩いてきた道をふと振り返ると、たくさんのものが落ちている。
夏は、そんな落とし物を見つけるような季節だ。
自分は今も自分でいられているのか?なんて、思ってしまう季節だ。
学校が休みになって、長い時間を貰って、子供の頃、思春期の頃、自分について考えたあの蒸し暑い夜。
あの夜の記憶が、ぶり返してくる。
寝苦しい夜が、やってくる。

夏は夜なんだよな。

梅雨が去った。
新しい季節がやってきた。
この季節が終わる頃。
セブンガールズの映画撮影の季節がやってくる。

自問自答の夜の季節を越えて。
自我解放の秋がやってくる。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:24| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする