サッカーのオリンピック出場予定の選手たちの昨日の試合のインタビューを読んだ。
手倉森監督の事を、選手たちは一様に、「テグさん」と呼ぶ。
そういえば、サッカーの世界は、わりに、あだ名で読んだり下の名前で呼んだりだ。
あれは、たぶん、わざとそういう風にしていったのだと思う。
プロ野球の世界では、絶対に有り得ないだろうことだ。
最近は、上下関係が曖昧になっている。
年上の人間も、余りえばったりするのはかっこ悪いなという意識がある。
年下は年下で、当たり前のように先輩に突っ込むし、距離が近い。
親を下の名前で読んだり、先輩をあだ名で呼んだり。
それは、もちろん、全てが悪いことではないのだと思う。
元々は儒教的な考え方で、西洋的な考え方が浸透してきたのだと思う。
おいらなんかは、まだちょっと面食らう事があるけどね。
多分、おいらぐらいの世代のせいなんだろうなぁって思う。
おいらが中学1年生の時、野球部なんかは、厳然たる上下関係があった。
3年生には、その中学最後の番長が代々受け継いできた学ランを着ていた。
でも、それが、なんか、恥ずかしくなってきて、3年になった頃には後輩に厳しいとかダサいって雰囲気になった。
だから、余り、おいらぐらいから、後輩に厳しく当たらなくなった。
厳しく当たっている奴がいたら、周りから、お前えばってんじゃねぇよぐらい言われてた。
とは言え、会社組織なんかは上下関係の塊だ。
誰だっていずれは、社会に出るわけで。
上司や先輩に怒られる場面だって出てくるだろうと思う。
そう思えば、学生時代にもっと上下関係がはっきりしていても良いかもしれない。
今、会社組織の役付きの人はみんな、新卒学生の扱い方がわからないそうだ。
怒るとやめてしまったり、ふてくされる。
飲みに誘っても、断られる。
敬語が使えない。
コミュニケーションを取ろうと思っても方法すら掴めない人もいるそうだ。
おいらが、演劇を始めた時。
こんなにクリエイティブな世界だっていうのに、意外にも体育会的な部分が残ってた。
先輩は絶対だった。
先輩が、煙草を切らせたら、街中を走り回って買いに行った。
先輩に呑めと言われたら、吐いた後でも飲まなくちゃいけなかった。
さすがに、ひどくえばる人なんかはそんなにいなかったけど。
飲んで、殴ってくる先輩なんかもいるにはいた。
ただ、それでもおいらは、わりに先輩に付いて回った。
とにかく、芝居ってなんだろう?って思っていたから話を聞きたかった。
1つ上の先輩から、30歳以上年上の先輩まで。
芝居を観たり、稽古を観たりして、呑みに行った。
自分が一番下っ端で、めんどくさいこともあったけど、行った。
そこでたくさんのことを学んだのだけれど。
今、思えば、一番自分の身になったなぁと思う事は、取捨選択が出来るようになったことだ。
先輩が10人いれば、10人違う事を言ったりする。
その中で、自分の為になる言葉を選択しなくちゃいけなかった。
どうやら、この人の言っていることは、すごいことだぞ・・・。
そんな嗅覚を養ったと思う。
それは多分、先輩という絶対的な存在の中でもまれながら。
そこで、自我をしっかりと持つという稽古だったのだと思う。
先輩のいう事は聞くけれど、かと言って、先輩の言葉全てを信じるわけではなかった。
おいらはおいらだ。考えていることがあるんだ。
そういう自分を少しずつ練り上げていったのだと思う。
そして、少しは言い返せるぐらいになった。
でも、それだと、おかしくないですか?程度の小さな反抗だったけどさ。
終戦直後という時代。
この頃の上下関係は強烈だ。
父親に歯向かうなんてとんでもない事だった。
軍に在籍していたものは、殴られても文句など言えなかった。
終戦直後の時代じゃないけどさ。
うちの親父だって、おじいちゃんに時々敬語を使ってたよ。
実の父親には、敬語が当たり前だった。
おふくろだって、おばちゃんのことをお姉さんって言う。
お姉ちゃんなんて言ってるのは聞いたことがない。
上下関係はバカバカしいと思っている人もいるかもしれない。
でも、別に、封建的な関係なわけではないんだよ。
儒教的なものだ。
先祖を大切にしなさい。
目上の人を敬いなさい。
そうやって、関係性を整理していくことが、必要な時代だったのかもしれない。
でも、実際に、武士が美しいのは、儒教的思想を体現しているからだ。
だからお年寄りを大事にするのなんか、当たり前の時代だった。
昔の人が現代に来たら、お年寄りに対しての態度に皆、怒ると思うよ。
まるで子供をあやすような喋り方で接している人がたくさんいる。
そういうのを観ると、今が乱れているっていう意見にも、どこか納得がいくよ。
敗戦というのはそういう儒教的な何かも決定的に壊した。
誰だって、その日生きていくのに精いっぱいだから、そんなことを気にしていられなかった。
だからこそ、儒教的な何かを守ろうという人もたくさんいた。
俺は動物じゃない。そういう連中もたくさんいた。
つまり前提だ。
大正生まれ。昭和初期生まれ。
そういう登場人物だ。
彼女ら、彼らは、日本人的な美意識を強く持っている。
そして、それを敗戦で奪われた。
そういう前提の上でじゃないと、実は、芝居にならない。
俺だったら、こうするな・・・。
私だったら、こう言うかな・・・。
は、たぶん、全部間違っている。
何故なら、俺も私も現代人だからだ。
現代人の上に、娼婦でもないし、敗戦も経験していないからだ。
上下関係だけでも。
おいらが生きてきた数十年の間にこれほど変わってしまうのだから。
・・・いや、本当に信じられない変化だよ。
もう想像を超えていくぐらいに、この時代の人たちを創造しなくちゃいけない。