稽古をしてきた。
強く芝居を見せるには・・・というテーマがそこにあったように思う。
表情に始まって、或いはそぎ落としてソリッドにしていくこと、そういう事などなどだ。
舞台では見えない細かい表情について、繰り返し、身に着ける作業になっている。
つまり、今までやってきた芝居に、更に新しい引き出しを作っている最中だ。
そこを理解して自分の引き出しをどれだけ増やせるかだ。
もちろん、結果的にその引き出しを使わない可能性はある。
或いは、使用しない方が評価されることだってある。
引き出しはあくまでも、技術の一つでしかない。
本質的に言えば、役になって、感情を理解して演じることとは余り関係がないことだ。
ただ関係ないとしても、実際に作品になった時に、そのテクニックの方が立ってしまう場合がある。
そこまで理解して、自分の引き出しを増やしなさいという事だろう。
その後は、今度は自分のセンスになってくる。
この場面では、この引き出し一つだけで勝負する。
この場面では、あえて何もやらない。
この場面では、感情だけで押し切る。
そのチョイスは、結局、役者本人にしか出来ない部分でもある。
明確にチョイスが違えば、監督から声も上がるだろうけれど。
そもそもそこまで違うチョイスをしてしまうようでは、感覚にズレがあることになる。
ただ、そこで、監督の想定しているチョイスを越えていくのが役者の仕事でもある。
そここそ、個だ。
個性ではなく。個。
個性が、体格であったり、顔であったり、性別であったり、元々生まれ持っているものだとすれば。
個とは、そいつが体得してきた意思そのものだ。英語ならエゴと言ってもいい。
作品を成立させながら、個も出てくる。そうなるのが理想だ。
今日、稽古をしていて、ふと薪能を思い浮かべた。
能は、面をかぶる。
薪能の照明は、そこに焚かれた炎だけである。
お面には、人間の顔とは違って、表情筋がない。固定された顔のはずだ。
それなのに、能を観ると、まるで嘘のように表情が浮かんでくる。
ゆらぐ炎の灯りを浴びて、その角度で首をかしげ、どんな体勢になるか。
たったそれだけのことで、豊かな表情を生み出す。
伝統芸として型を持っている。
でも、型だけではない。
面の下で、彼らはストレートの俳優からすれば異常なほどの感情表現をしている。
以前、NHKで能役者の脳波を調べた時、脳波が異常に揺れているのを見たことがある。
動きは型で、表情さえ面をかぶるから、おいらたちからすれば何も武器を持っていない能役者。
そこが辿り着くのは、異常なまでの感情表現だったのだ。
能面という言葉は、無表情を指す。
けれど、そうじゃない。全然間違っている。
無表情でも豊かな感情表現が出来る。
照明を計算して、アングルを計算して、かつ、自分の中に異常な何かを持った時。
それは豊かな表現になるという事だ。
同じ能役者でも、華のあるなしがあるのは、そういう違いがあるのだ。
面が泣き、面が怒り、面が笑う。
芝居はシンプルにするほど強くなるという事だ。
そして、複雑にするほど、細かい表現が可能になる。
それを体感で、そして人の芝居を観て、或いはモニター越しに経験した。実際に。
今の稽古で何を掴めるのか。
それは、もう、たぶん、個々の自由だ。
それぞれが勝手に解釈して、それぞれの中で変化だってするかもしれない。
それがどんな風に実際の撮影に影響していくのかも想定できない。
実は何も身についていない人がいてもおかしくないと思う。
どう咀嚼して、自分のものにしていくのか。
それは、ある意味楽しみでもある。
地道な作業だ。
でも、それは、自分の表現が豊かになるためのものだ。
そして同時に。
監督との共通認識を深めていく作業にもなっている。
けれどこれも、おいらだけの今日の稽古の認識でしかない。
これはまだ、スポーツで言えば準備体操に過ぎない。