さっき書いたばかりだけれど。
少し、体調を崩してズレた日程を戻したい。
無理のない程度に。
実は一つ危惧していることがある。
通常の映画撮影であれば、シナリオが配られ、本読みがある。
そこである程度の説明や、役に対するヒントなどが出る。
その後、稽古がある場合もない場合も、役者だけの時間がある。
役者はシナリオと孤独に格闘して自分なりの役作りをしてプランをくみ上げる。
そして、監督も共演者も、撮影日にどんな芝居を持ち込んでくるのか初めて知ることになる。
そこで初めてだから共演者からは新鮮なリアクションが生まれる。
監督も、どんな芝居を持ち込んでくるか楽しみにしているからそこで化学変化が生まれる。
もちろん、その場合、逆の目も起こる。
いや、実際には逆の目の方が多いのかもしれない。
そういう芝居ならこう出来ないか?
相手がこういう芝居できたから、ちょっと変えないといけないぞ。
ちょっと待て。それだと、全然違っちゃう。
そういう事が撮影現場で起きる。
結果的に1つのシーンに何時間も時間を重ねることになる。
場合によっては、日を跨ぐことだってある。
今回、撮影日数がそんなにない。
だから、事前に芝居を作っていく。
撮影現場でのやり取りを極力、事前に解消しておこうという事だ。
ただ、もちろん、芝居に関して言えばその弊害もあるわけだ。
相手役にとっては新鮮ではないのだから、生のリアクションは望めない。
だから、リアクションまで含めて仕上げておかなくてはいけない。
監督にとっても、勝手知ったる役者がそれも一緒に稽古をしてきているのだから、新鮮味がない。
どんな芝居を持ち込んでくるか?こう来るなら、こういうアングルにしよう。
そういうクリエイティビティーが喪われてしまう。
実は舞台の持つ、最大の弱点がここだ。
稽古を繰り返すうちに、無意識のレベルで飽きてきてしまう。
相手の芝居も同じものを何度も何度も観ているのだから、人間である以上仕方がない。
舞台稽古は、だから、飽きてからがスタートなんて言われる。
飽きてから更にその壁を越えないと、どこか予定調和な空気が流れる。
映像畑の人が、舞台に来た時に、この壁に苦労するのはとてもよくわかる。
毎回、新鮮にリセットして芝居が出来るようになるのは、体感でそのきっかけを芝居の中にみつけていくしかない。
嘘で驚いてもどうせばれる。
だから、毎ステージ、本当に驚かなくちゃいけない。
けれど、何が起きてなぜ驚くかまで、もう知っている。
その繰り返しの中で、自分が新鮮に驚く事が出来る精神状態の作り方を掴んでいくしかない。
今回の撮影前の稽古で一番やばいなぁと思うのは、1から100まで監督に教わろうという状態になった時だ。
もちろん、役者は、問題なく芝居が出来ると思う。
でも、監督にとってはどうだろう。
自分が教えた芝居を忠実にカメラの前で何人もが繰り返していったとして。
そこに、なんらかのクリエイティブがあるだろうか。
非常に、小さな世界の芝居になりかねない。
人間の脳味噌は、刺激がないと活性化しないのだ。
監督が驚くような演技を。
監督が感動してしまうような表情を。
どこかで、見せていかないと、予定通りの芝居をただただ見るだけになってしまう。
ちょっと隙を見せると、これまでの関係性もあるから、役者から生徒になってしまう。
でも、それは、もう絶対にダメだ。と心に決めている。
もちろん、教わるのだけれど、教わるだけじゃダメだ。
役者なんだから、もっと、こっちから芝居で提案をしていくぐらいじゃないと。
撮影日に、こんな芝居を持ち込んできたか!と思わせるのは中々難しいかもしれないけれど。
稽古場にそれを持ち込むことは、今までだってやってきたことだ。
そして、芝居を持ち込んで、もっと良くしようというクリエイトする時間を過ごして、芝居を固めたうえで。
再度、撮影現場で、驚かせたいなぁと思う。
撮影本番という緊張した空気の中で、稽古通りなのに、それ以上の何かが出ているような芝居を。
それは、もう、監督にしかわからないのでも構わない。
映画を観てくださる方々に伝わらないと意味がないと思いがちだけれど、そんなことは全くない。
現場の空気を変えるぐらいの芝居は、誰もが気付くようなものではなくて、作品の持つ空気になるだろうからだ。
泥臭いことを言えば、ハングリー精神みたいなものかもしれない。
実際に、この時代の全ての人は飢えていたのだから。
それが、社会的には有名とは言えない役者連中が必死になって映画を創ることと重なればいい。
そういう空気を、厭になるほど、にじり出す。
その為には、なんだか、足りない事ばかりだ。
飢えろ。
もっと、色々なことに飢えろ。