体調もだいぶ回復した。
今日は、ちょっと出かけてみようかと思っていたのだけれども。
やっぱり、無理は出来ないと思って、やめておく。
明日は稽古だしね。
ヨーグルトやお粥や消化のいいものばかり食べていたら、体が浄化された気分だ。
今までスパイスのきいた物や揚げ物も口にしてきたからなおさらだ。
明日は飲みにも行かないだろうし。
体の内組織が少しずつ変わっちゃうんじゃないだろうか。
食はそのまま体の要素になるんだから、当然、変わるのだろうと思う。
精進料理を食べると、闘争本能が薄らぐと聞いたことがある。
動物性たんぱく質は、そのまま闘争本能に直結する栄養分が多いのだそうだ。
0.001mgなんていう量のアミノ酸が脳内では十分に影響するのだから、あり得る話だと思う。
肉食動物は闘争本能がなければ飢え死にしてしまうのだから、必須のはずだ。
日本人の食生活も、魚中心の菜食だったわけで、思考の変容はあるだろうと思う。
そういえば幕末作品で坂本龍馬を演じていた時に、商家に生まれた龍馬は、動物性たんぱく質を豊富に摂取していた説を見た。
鰹で有名な土佐では、富裕層は、多くの動物性たんぱく質を摂取できる。
当時としては、大柄だった体格も、頑丈な肉体もこれで説明がつくんじゃないかと書かれていた。
そうなると、まだ数日なので大して変わりようがないとはいえ。
今のおいらは、禅でも組むような精神性なのかもしれない。
攻撃性が弱まっているかもしれない。
自分の演じる役を思えば、これではいかんと思う。
当時を思えば、とにかく、食べる物なんかなかったし、腹いっぱいに中々なれなかった。
常に飢えていて、たまに食べる物もロクなものじゃなかった。
その状況での精神状態をイメージしなくてはいけないと思う。
これは、もう基本中の基本だ。
実際、数日食べる物が変わっただけで、自分の内部での変化を感じるんだから。
それが数か月以上続いた当時だったらどういう状態なのか考えただけですぐにわかる。
戦後の小説をよく書いた色川先生の小説でも何度も書かれている。
皆、頬が落ちくぼみ、目をぎょろりとさせて、当てもなくただ歩いていた・・・なんて一節だ。
東京の中心部の焼野原でも、畑を耕している人がいる。
とにかく、食べる物を少しでも作るためだったのだろう。
肉野菜はそれでも、魚や缶詰や、地方から運んで来たりしていたようだけれど。
決定的に、小麦粉やコメなどの炭水化物は足りていなかった。
それは、当時の物価票をみてもすぐにわかる。
小麦粉と米だけは、異常に物価が高くなってた。
それじゃあ、日本人は腹も膨れないよ。
うちは真言密教で、檀家になっているお寺は親戚だから話を聞いたけれども。
修行中は、やはり食事制限が入るらしい。
殆ど、味のしない薄い粥や、汁、香物だけで何日も修行する。
睡眠時間もロクにとれない修行中は、普通に幻覚や幻聴まであるという。
何メートルも離れている場所の食べ物の匂いでそれが何かわかるようになるらしい。
それだけ、精神がとぎすまされるのは納得が出来る。
何故なら、飢えているときは、動物は狩猟採食をしなくてはいけないからだ。
飢えれば飢えるほど、人の精神は研ぎ澄まされていって、森の中の果物を見つけたり、動物の糞を見つけることが出来る。
センサーがより鋭敏になっていくのは、当然の事なのだ。
全国民がそういう状態だったのだから、すごい時代だと思う。
たまたまだけれど。
少し体を壊して。
自分は、本当に飢えている状態での芝居を出来ているだろうか?と不安になった。
頭ではわかっているけれど、肉体で理解できているだろうか?
目がぎょろぎょろしているだろうか。
基本だぜ。
この映画にとって。
飢えは。
飽食の時代に生まれ育ったおいらたちが、それを演じなくてはならない。