熱は下がったものの、腹痛と頭痛が続く。
注意深く、食べる物を選びながら過ごす。
ここは、無理はしない。
まぁ、CTまで撮影しての診断なのだからこれ以上悪くなることもない。
安静にすればそれでいい。
逆に無理しなくてはいけない場面が必ず出てくるのもわかっているのだから。
こないだの稽古で少し重大な発表があったと思う。
これからの稽古について。
そのことについて、それぞれ、今、どう思っているかなぁと、ぼぉっとした頭で考えていた。
芸というのは、結局、人に教わったり、教えたりできるものではない。
精々、アドバイス程度しか出来ないものだ。
自分で理屈から理解しないと、中々、物に出来ない。
例えば、落語なんか、教えたりするわけじゃないらしい。
もう、端から高座を見てなさいってのが教えだ。
デビッド・宮原が、最初に芸の世界に入ったのはダンスだ。
それも、当時、日本人で踊っている人なんかいなかったダンスを身につけた。
海外の数少ない映像や、様々なものを観て、自分のダンスにしていったのだろう。
基本的に、仲間はいても、教わった先生なんかいなかったはずだ。
ダンスや、殺陣なんかの肉体表現は、特にわかりやすい。
ここで、右手を挙げて、ここで右足が前!なんてのでは、結局、なんにも覚えられない。
そこには身体的な理屈があって、その理屈を頭ではなくて、体が覚えないと絶対に入らない。
おいらは、舞台でダンスを踊らなくちゃいけない時は、基本的に見るようにしている。
リズムを見て、足の運びを見て、って見る場所を毎回決めて、見る方に集中する。
見て理解できた部分だけ、実践して、体で理解するようにしている。
中々、うまくいかないけど、実際に、そうやらないと、振り付けなんか全く覚えられない。
殺陣もそうで、体重移動から覚えないと、おいらは全く体が動かない。
コトワリがあると、荻ちゃんやおやっさんに教わって、初めて手が入るようになった。
芸ってのは、教わってできるものじゃない。
自分で発見して、自分で体感して、自分で理解しないと、それは芸にならないからだ。
教わっても、結局は頭で理解しただけで、理屈も感覚もなんにもないから、上っ面になる。
だから、人に、お芝居の相談をされるとおいらは、わりに曖昧な事を言う。
思いっきり声を出してみれば?とか、ちょっとそこで立ち止まって我慢してやってみれば?とか。
その結果、何かを自分でみつけてくれたら、それが自分で発見した答えだから。
そもそもが、言葉で芸は説明できないからしょうがない。
体重がずーっと下の方に落ちていくイメージで!と言われても肉体的理解があるかないかで理解度が変わる。
おいらの師匠は、演出家の言葉なんか30%も俳優に伝わっていたら、凄いと言っていたけれど。
本当にそう思う。
肉体感覚を言葉に変換して他者に伝えても、他者が再度その言葉を自分の肉体感覚に戻せるかは別なのだ。
芸は盗むものなのだよ。
ぬすっとなのです。
盗人結構。
人の芝居を見て、人の動きを見て、人の表情を見て。
自分に置き換えて、試して、発見して、肉体感覚に落として、自分のものにする。
その繰り返ししかない。
もちろん、表面を盗むようじゃダメ。
ネタをパクる的なね。
あそこで、あの俳優がにやりと笑ったから、俺も笑おうなんてのは、結局表面的なんだ。
あそこで、あの俳優がにやりと笑ったのは、どういう流れでどういう狙いだったんだろう?やってみよう。しかない。
やってみたら、やってみたで、それなら、こっちの方が自分に合ってるかもというのが出てくるぐらいじゃないとダメだ。
そこまで行けば、ぬすっとのようで、ぬすっとじゃなくなる。
少なからず、芸の伝承は、延々とそれが連なってきたからこそなのだ。
23年前の今日。
おいらの親友が亡くなった。
今日は命日だ。
あいつが高校時代、教室で毎日ギターを弾いていたのを思い出す。
色々なギターリストの曲を耳でコピーしていた。
延々と、あいつは、真似をしていたよ。
卒業の頃になったら自分の曲も作っていたけれど。
譜面を見るんじゃなくて、大抵がウォークマンを聞きながらだった。
何度も壊れるウォークマンを自分で直すものだから、途中から学校中のウォークマンの修理工場みたいになってた。
多分、教わるという感覚が、もう違う。
自分のものにする。
それしか、結局は身につかない。