「監督」という言葉は、わりに日本でよく使われるけれど。
どうも、日本的な言葉で、海外では色々意味が違うらしい。
例えばサッカーだと、チームは「マネージャー」だったり、代表監督は「選ぶ人」だったり。
映画でも、ディレクターだったり。
少なくても、スポーツでも芸術でも、同じ役職っていう事はない。
指揮者・・・ぐらいの意味で使っているのかな?
とにかく、英和辞典で、監督を和訳すると、いくつも言葉が出てきてしまう。
そのぐらい、日本語では監督という言葉に色々な意味が付いている。
ボス的な意味も入っているから、日本独特なのかもしれない。
逆説的に言えば、日本の監督には振り幅があると言える。
様々なタイプの監督が存在するのだと思う。
監督次第で全く現場の在り様が違うという事だ。
おいらが出会った演出家たちもとても振り幅があった。
例えば、モチベーター的な演出家もいる。
役者のモチベーションを上げて、その役者が持っている本質を引っ張り出す。
どんどん自意識をはぎとって、本質的な部分を見ようとする演出家もいる。
逆に、どんどん肉付けしていく演出家もいる。
立ち位置や、段取りを考えてくる、いわゆる戦術家的な演出家もいる。
役者は、役者の仕事なんだから演技を引き出すのは演出家の仕事ではないと言い切る人もいるぐらいだ。
おいらの出会ってきたどの演出家も、間違っていないと思う。
もちろん、役者によっては合う合わないは出てくるかもしれないけれど。
映画監督も恐らくは、同じで。
それは、やっぱり現場に行かないと結局わからないのだと思う。
俳優も含めた全てのスタッフさんが、最大の力を発揮できるようにする監督もいれば。
自分の脳内に作り上げた世界観に、全員を引き寄せていく監督もいるだろうという事だ。
時々。
十代の青春物を撮影させたら、ピカイチの映画監督って出てくるでしょう?
その時代、その時代で、必ず出てくる。
それって、なんだか、すごくわかるのです。
十代の撮影がうまいっていうのも、もちろん、あるんだと思うのだけれど。
十代の感性を大事にして、かつ、上手に乗せることが出来る人がいるのだと思う。
でも、多分、それは精々15年ぐらいなんじゃないかなぁ。
段々、世代間ギャップが広がっていくと、十代の感性におっつかなくなるだろうから。
だから、時代ごとに若い監督が出てくるのだと思う。
それはきっと、テクニカルな部分だけじゃなくて、モチベーター的な資質を持った人だ。
モチベーションを上げるのなんか、当然、俳優の仕事だ。
ベテランであれば、なんで若いやつの尻を叩かなくちゃいけないんだ?って誰だって思うだろう。
作品に思いを込めるのなんか、誰かに乗せてもらってやることじゃないのだ。
それぞれが自分なりに、どう作品に取り組んでいくのか考えるのが通常だ。
それがプロフェッショナルっつーもんでしょ!という矜持をもって取り組んでいるつもりだ。
それでもね。
なんというか、おいらの場合、多分、一番の弱点だけど、すごく気にしちゃう。
こうなってくると、あの子はやりにくいかな?
こうしちゃうと、あいつは、ちょっとめんどくさがるかもな?
なんて、気にしないで良いようなことまでどんどん気になってくる。
あ、別に良い人なわけではない。
そいつの事を気遣っているというのとはちょっと違う。
誰か一人がやりにくいと考えたら、全体にとってもマイナスだなって思うだけのコト。
だから、何人かが言いたくても我慢してるようなことは、おいらが言ったりしちゃう。
仕方ないよ。そういうことを考えると、もう止まらなくなる。
昔は気の使い過ぎで、神経性胃炎になっちゃったぐらいだ。
今は、おかげさまで、胃から心臓から、毛がぼうぼうに生えているけれど。
デビッドさんは、モチベーターとは少し違う。
俳優には、俳優の仕事を求めている。
自分は監督として、この話をどう見せていくかに集中している。
ただ、この映画の中心にあるのは映像でも物語でもなく、芝居だよと言い切っている。
だから、俳優同志で、どんどん高めていかなくちゃいけないんじゃないかと感じている。
クリエイティブな段階に進めば、デビッドさんの演出は、すごく冴えていくのを知っている。
そういう芝居なら、こうしたい。こんなカット割りも追加したい。
どんどん湧き出すのを知っている。
その為には、まず俳優がスタートラインに立つ必要がある。
おいらたちは、十代のそれが必要な役者ではないからだ。