2016年06月03日

語られないからって、なかったことになんかなるもんか。

戦災孤児はパンパンとよく似ている。

終戦後の戦災孤児は統計で12万人いたそうだ。
統計なんて最低限の数字だから実際の数字はもっと多いかもしれない。
空襲で親を亡くし、孤児となった子供たちだ。
彼らは、自力で、食っていかなくちゃいけなかった。

有名なのは靴磨きだ。
今も上野駅前にずらりと並ぶ孤児たちの靴磨きの映像を目にすることがある。
おいらが子供の頃も、新宿の西口駅前に靴磨きの人っていたな・・・。
とにかく、子供ではまともな仕事なんかない。
靴磨きであったり、物資の運び屋であったり、闇市の小番であったり。
そのぐらいならまだしも、スリであったり、窃盗団であったり。裏の横流しであったり。
生きていくためにはなんだってしたのだという。

この12万人という数字に対して。
実は、その後の戦災孤児についての資料というのが余りにも少なすぎる。
子供たちが一体どこに行ったのか。その後どうなったのか。
その資料が余りにも少ない。
11万人近くは、何年か経過してから親戚が引き取ったという。
それでも、1万人も残っている。
アメリカに養子に行った子もいるし、施設に入った子もいるらしいけれど。
確実に数千名に関しては、その後どうやって暮らしていったのかもわからないままだ。
その後の高度経済成長期に、有力な労働力として、どんどん社会に溶け込んでいったというのが一般的な解釈だ。
実際には、ヤクザになった子もたくさんいるし、亡くなった子もたくさんいる。

それなら、そんな逸話がもっと聞かれてもおかしくないのだけれど。
ほとんど聞こえてこないは、やはり、終戦直後の一時期にある。
今でこそ、戦災孤児なんて言い方をするけれど、当時は、浮浪児と呼ばれていた。
浮浪児は、汚いし、大抵はなんらかの犯罪に手を染めていた。
社会的には忌み嫌われて、最終的には警察による狩り込みで集められた。
親を失った子供たちをかわいそうだなんて、引き取る余裕はどこにも誰にもなかった。
かわいがってくれたのはむしろ、一部のGHQと、パンパンのお姉さんたちだったという。
浮浪児は犯罪に直結しているというイメージは戦後しばらく続いた。
だから、戦災孤児たちは、親戚に預かってもらっても、社会に溶け込んでも、その過去を隠したのだ。
駅前で靴磨きをしていた過去は、全て封印してその後の社会に進出していったのだ。
目の前で友人が餓死した少年は、そのことを誰にも話さないまま、一生を終えたのだ。

当時の浮浪児たち・・・10歳以下の子供たちも、いよいよ80代に入っている。
恐らく、彼ら彼女らは、今も口を閉ざしたまま、普通に生きている。
今なら考えられない事でしょう?
いま浮浪児なんかいたら、すぐに警察が保護する。
子供が着の身着のままで野宿なんて出来るわけがないんだから。
もう犯罪なんて時効だし、むしろ戦争の被害者なんだって誰でもわかっているのに何も口にしない。
誰にも話したくないような差別をたくさん受けたし、自分でも思い出したくないのだと想像するしかない。
その中でも、ほんの何人かは、当時の事を口にしているんだけど・・・
ネットで検索すれば出てくるけれど、その生活の酷さに涙さえ出てきてしまう。

パンパンは一説によると当時20万人以上いたのだという。

その浮浪児よりも全国レベルでは多かったと言われている。
もう20代、30代だっただろうから、今、ご存命でも90代を越えていることになる。
彼女たちも、戦災で家族を失った。
孤独になった社会的弱者。
女、子供が、どうやって、家族も仕事もなくて生きていくのか。
必死に生きたという意味で同じだという事だ。
女はパンパンになって、子供は浮浪児になったのだ。

当たり前だけど。
彼女たちも口を閉ざした。
パンパンだった女性の証言は、ネットで検索してもほとんど出てこない。
浮浪児よりも女性としての過去は、その後の生活を脅かす過去なのだろうと思う。

おいらは男だからさ。
パンパンの悲しさの全てを本当の意味で深い所で理解できないだろうと思う。
そんな時、戦災孤児の記録や小説を見るようにしている。
彼らのその後の人生の中のコンプレックスを肌で感じるようにしている。
時にそれは、自分でも驚くぐらい、親身に迫って悲しくなる。
その思いを、その涙を、キャッチして離さないようにする。

そして、同時に戦慄する。
今も、世界では戦災孤児が生まれているという事実に気付いてしまうからだ。


posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:26| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする