2016年06月30日

上下関係

サッカーのオリンピック出場予定の選手たちの昨日の試合のインタビューを読んだ。
手倉森監督の事を、選手たちは一様に、「テグさん」と呼ぶ。
そういえば、サッカーの世界は、わりに、あだ名で読んだり下の名前で呼んだりだ。
あれは、たぶん、わざとそういう風にしていったのだと思う。
プロ野球の世界では、絶対に有り得ないだろうことだ。

最近は、上下関係が曖昧になっている。
年上の人間も、余りえばったりするのはかっこ悪いなという意識がある。
年下は年下で、当たり前のように先輩に突っ込むし、距離が近い。
親を下の名前で読んだり、先輩をあだ名で呼んだり。
それは、もちろん、全てが悪いことではないのだと思う。
元々は儒教的な考え方で、西洋的な考え方が浸透してきたのだと思う。
おいらなんかは、まだちょっと面食らう事があるけどね。

多分、おいらぐらいの世代のせいなんだろうなぁって思う。
おいらが中学1年生の時、野球部なんかは、厳然たる上下関係があった。
3年生には、その中学最後の番長が代々受け継いできた学ランを着ていた。
でも、それが、なんか、恥ずかしくなってきて、3年になった頃には後輩に厳しいとかダサいって雰囲気になった。
だから、余り、おいらぐらいから、後輩に厳しく当たらなくなった。
厳しく当たっている奴がいたら、周りから、お前えばってんじゃねぇよぐらい言われてた。

とは言え、会社組織なんかは上下関係の塊だ。
誰だっていずれは、社会に出るわけで。
上司や先輩に怒られる場面だって出てくるだろうと思う。
そう思えば、学生時代にもっと上下関係がはっきりしていても良いかもしれない。
今、会社組織の役付きの人はみんな、新卒学生の扱い方がわからないそうだ。
怒るとやめてしまったり、ふてくされる。
飲みに誘っても、断られる。
敬語が使えない。
コミュニケーションを取ろうと思っても方法すら掴めない人もいるそうだ。

おいらが、演劇を始めた時。
こんなにクリエイティブな世界だっていうのに、意外にも体育会的な部分が残ってた。
先輩は絶対だった。
先輩が、煙草を切らせたら、街中を走り回って買いに行った。
先輩に呑めと言われたら、吐いた後でも飲まなくちゃいけなかった。
さすがに、ひどくえばる人なんかはそんなにいなかったけど。
飲んで、殴ってくる先輩なんかもいるにはいた。

ただ、それでもおいらは、わりに先輩に付いて回った。
とにかく、芝居ってなんだろう?って思っていたから話を聞きたかった。
1つ上の先輩から、30歳以上年上の先輩まで。
芝居を観たり、稽古を観たりして、呑みに行った。
自分が一番下っ端で、めんどくさいこともあったけど、行った。

そこでたくさんのことを学んだのだけれど。
今、思えば、一番自分の身になったなぁと思う事は、取捨選択が出来るようになったことだ。
先輩が10人いれば、10人違う事を言ったりする。
その中で、自分の為になる言葉を選択しなくちゃいけなかった。
どうやら、この人の言っていることは、すごいことだぞ・・・。
そんな嗅覚を養ったと思う。

それは多分、先輩という絶対的な存在の中でもまれながら。
そこで、自我をしっかりと持つという稽古だったのだと思う。
先輩のいう事は聞くけれど、かと言って、先輩の言葉全てを信じるわけではなかった。
おいらはおいらだ。考えていることがあるんだ。
そういう自分を少しずつ練り上げていったのだと思う。
そして、少しは言い返せるぐらいになった。
でも、それだと、おかしくないですか?程度の小さな反抗だったけどさ。


終戦直後という時代。
この頃の上下関係は強烈だ。
父親に歯向かうなんてとんでもない事だった。
軍に在籍していたものは、殴られても文句など言えなかった。

終戦直後の時代じゃないけどさ。
うちの親父だって、おじいちゃんに時々敬語を使ってたよ。
実の父親には、敬語が当たり前だった。
おふくろだって、おばちゃんのことをお姉さんって言う。
お姉ちゃんなんて言ってるのは聞いたことがない。

上下関係はバカバカしいと思っている人もいるかもしれない。
でも、別に、封建的な関係なわけではないんだよ。
儒教的なものだ。
先祖を大切にしなさい。
目上の人を敬いなさい。
そうやって、関係性を整理していくことが、必要な時代だったのかもしれない。
でも、実際に、武士が美しいのは、儒教的思想を体現しているからだ。
だからお年寄りを大事にするのなんか、当たり前の時代だった。
昔の人が現代に来たら、お年寄りに対しての態度に皆、怒ると思うよ。
まるで子供をあやすような喋り方で接している人がたくさんいる。
そういうのを観ると、今が乱れているっていう意見にも、どこか納得がいくよ。

敗戦というのはそういう儒教的な何かも決定的に壊した。
誰だって、その日生きていくのに精いっぱいだから、そんなことを気にしていられなかった。
だからこそ、儒教的な何かを守ろうという人もたくさんいた。
俺は動物じゃない。そういう連中もたくさんいた。


つまり前提だ。
大正生まれ。昭和初期生まれ。
そういう登場人物だ。
彼女ら、彼らは、日本人的な美意識を強く持っている。
そして、それを敗戦で奪われた。
そういう前提の上でじゃないと、実は、芝居にならない。
俺だったら、こうするな・・・。
私だったら、こう言うかな・・・。
は、たぶん、全部間違っている。
何故なら、俺も私も現代人だからだ。
現代人の上に、娼婦でもないし、敗戦も経験していないからだ。

上下関係だけでも。
おいらが生きてきた数十年の間にこれほど変わってしまうのだから。
・・・いや、本当に信じられない変化だよ。
もう想像を超えていくぐらいに、この時代の人たちを創造しなくちゃいけない。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:57| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月29日

笑顔をくれた人

長年連れ添った夫婦は顔が似てくると言ったりする。
実際、なんだかよく似たおじいちゃん、おばあちゃんっているから、嘘じゃない。
・・・というか、実はすごく納得がいく。

人間の顔には30種類以上の筋肉がある。
そのうち数割が表情筋と呼ばれる筋肉だ。
筋肉だから、当然、鍛えれば強化されるし、エネルギーも使う。
全ての生物の中で、人間ほど表情が豊かな生物はいない。
表情筋はつまり、コミュニケーション能力そのもので、人間の何が進化したのかがすぐにわかる。
笑うのも泣くのも怒るのも、全てこの筋肉が動くことで、外部に表現される。
顔には目が付いているのだから、鏡がないと自分では把握できない。
つまり、表情筋は、自分以外の相手の為だけにある。
社会性を持つことが、人間の大きな進化の一つであることの証拠だ。

生まれてすぐに赤ちゃんの表情を見ていると、口周りがすごく動くなぁって思う。
それは当たり前で、お母さんのおっぱいを必死で飲んでいるからだ。
口の周りを使う事が生きることと同義なのだから。
当然、筋肉である以上、表情筋も鍛えられていく。
まぁ、ほっぺが、ぷくっとしてるから、余計に口周りが動くのが目立つのかもしれないけれど。

その後赤ちゃんは、目が見えてくる。
その頃から、母親と濃密な時間を過ごすことになる。
お腹がすいても、おしっこをしても、とにかく母親がいないと何もできない。
言葉もまだ持たないから、泣いたり、表情を動かして必死に母親に伝える。
この頃から、一気に、赤ちゃんの表情は豊かになっていく。
目を見開いたり、にっこり笑ったり、むくれたり。
そして、学習していく。
母親の笑顔を見て、母親の表情を見て、それを真似して伝えようとする。
表情筋の基礎の基礎がどんどん出来ていく。

だから、笑顔は、お母さんからもらったものだ。

やっと目が見えた頃、言葉の前に、最初のコミュニケーション手段として学んだものだ。
こればっかりは、父親は敵わない。
どんなに顔の作りが父親に似ていても、笑顔だけは母親に似てしまう。
お母さんの笑顔から、笑顔を学ぶんだから。
まだ未発達だった表情筋に学ばせたのだから、もう一生ものの笑顔だ。
笑顔だけは、えんえんと、大昔から母親を通じて伝わってきたんだ。

それから大人になるにつれて、複雑な表情をどんどんするようになる。
恋をしたり、失恋をしたり、大事な人を喪ったり、何かを成し遂げたり。
それまでにない経験を重ねて、人は自分の顔を創っていく。
その頃になると、表情は二面性を持つようになる。
本音のまま、表情が出ている場合と。
本音を覆い隠すための表情をしている場合と。
大人になれば、悲しくても悲しい顔を出来なくなる。
本気で笑えなくなる人だって、たくさんいる。
お母さんからもらった笑顔を閉じ込めてしまう人も。

やがて、老齢に向かう。
顔には皺が刻まれていく。
それまでの、自分の人生で創り上げた表情筋に沿ったシワだ。
その人の笑顔の時の表情筋に沿ったシワ。
その人の普段の顔の表情筋に沿ったシワ。
表情が固定している人ほど、シワになっていく。
多彩な表情を持っている人ほど、深いシワにはならない。
いずれにせよ、その頃には、その人の人生そのものが顔に現れる。

長年連れ添った夫婦は、同じ時間を過ごしていくうちに、同じような表情筋を鍛えているのだと思う。
一緒に笑ったり、喧嘩したり、一緒に泣いたり。
そうこうしているうちに、いつの間にか、同じ表情に近くなっていく。
だから、顔が似ていく。
同じ筋肉を鍛えているんだから。
逆を言えば、一卵性双生児でも、別々に暮らせば年を重ねるほど、顔が変わっていく。

元劇団員の女優たちがSNSで、子供たちの写真をよく載せているんだけどね。
顔は父親に似ているなぁとかたくさんあるんだけど。
本当、笑顔はその女優に似てるんだな。
ああ、こんな笑い方してたなぁって、しょっちゅう思う。
あの子たちは、子供たちに笑顔をあげているんだね。

表情とはなんなのか。
実在的な意味なら、今書いたことになる。
観念的な意味も、ここに書いたように内包している。
映像は舞台以上に表情が見える。
創った表情なんか、すぐにばれる。
表情はやっぱり心から自然に湧き上がってくるものじゃないとどこか不自然になる。

美味しいものを食べた時の顔を創ることはできない。
美味しいものを食べた時風の顔になっちゃう。
美味しいものを食べた時に、自然に生まれた表情以上の自然さは生まれない。

つまり、映像の世界で演じるという事は、心から演じないと、結局通用しないという事だ。
もちろん、そこは舞台だって同じだ。肉体表現なのだから。
ただ、普段から誰だって知っている人間の表情は、より嘘がばれやすくなるだろうと思う。
より、嘘にならないように注意していかないといけないということだ。
その瞬間に、自分の内側から出てくる表情じゃないといけない。
そして多分、内側から出てくるものは、想像しているよりも大きい。
まず怒って、それを隠す表情をそれから創る。
演じているとやりすぎなんじゃないか?と思うぐらいじゃないと、表情まで届いてこない。

まだ、おいらの顔は完成していない。
おいらの人生が顔に出ていない。
おいらが芝居を始めたばかりの頃に出会った大先輩たちは、もう顔が完成していた。
人生そのものが顔に出ていた。
おいらは、まだまだそこに至っていない。

目の表情。
顔の表情。
声の表情。
肉体の表情。

心からだったり、心を隠したり。
その役の人生が、その顔に浮かんでくるだろうか。
そこまで、追い込むつもりぐらいで、丁度いい。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:16| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

映画を観て泣いたこと

映画を観て泣いたことってありますか?

子供の頃ね。
母親がテレビで映画を観ていて、泣いてるわけ。
それを見つけると、面白くてね。
絶対に、なんで泣いてるのーーー!?って聞いてました。

そう。映画を観ても、全然、泣けない人間でありました。
ETとかね。
泣いたーとか聞いて、嘘だろ!って思ってました。
別に楽しくなかったわけではなく。
映画を観て泣くってこと自体がなんだか理解できなかったのかもしれない。
それに、男は簡単に泣くな!って昔はよく言われ続けたものでね。
泣いちゃいけないって子供心にずっと思って生きてたのかもしれない。
今の子はどうなんだろう。

それで、少し大人になって。
一人でも映画に行くようになって。
なんか「コミック雑誌なんかいらない」とかをたまたま深夜に観ちゃって、ショックを受けたり。
なんとなく、映画の見方っていうのが変わっていって。
多分18ぐらいの時に、一人で映画に行って、信じられないぐらい号泣したんですね。
「渋滞」っていう映画なんだけれど。
あんまり見たことがある人がいない映画なので、共有できる人がいないんだけどさ。
ショーケンさんと黒木瞳さんかな。
でも、そのラストのショーケンさんのお父さんのシーンでね。
映画館で嗚咽でしたよ。
しかも、客が入ってなくて、その映画館、殆ど貸し切りだったんだよなぁ。

それ以降、もう簡単に泣くようになった。
釣りバカとかね。
酷い時は、「男はつらいよ」の予告CMで泣いちゃったりね。
あれ以来、どかんと変わっちゃったんだな。
今じゃ、もう、簡単に泣いちゃうんだから。

色々原因はあるんだと思う。
やっぱり、泣くっていう事が恥ずかしい事なんだって無意識レベルまで浸透していたのだろうと思う。
それが、殆ど貸し切り状態という、奇跡的な客席の映画館で。
誰はばかることなく泣いても文句を言われない状態だったのもあったのかな。
そもそも、泣くような結末だと思ってなかったっていう意外性もあるのかもしれない。
完全に、自分の自意識を一枚ひっぺがされた感じだった。

今のおいらが、セブンガールズを観たら、泣いちゃうんだけどさ。
当時のおいらが観たら、どうなんだろう?って思った。
絶対に泣かない!みたいなスタンスではないんだよ。何も決めてない。
ただ無意識的に、映画を観て泣くっていうことが、よくわからなかったおいら。

そこを打ち破るのって、監督の力なのかな?
それとも、脚本の力なのかな?
それとも、撮影の?それとも、音楽の?
もちろん、そのどれもなければ成立しないんだと思うけどさ。
でも、たぶん、俳優の力もそこにないと無理なんだろうって思うよ。
あのシーンのショーケンのお父さんの芝居は、映画の冒頭から計算された凄い演技だったもん。
瞬間で心を持っていかれるというか、瞬間でシンクロしてしまう芝居だった。

それをやれたらなって思うんだよ。
その為に、何が足りないかなって。
スクリーンの向こうから、何かを直接鷲掴みされたような感じだった。

最近は泣ける映画っていうキャッチフレーズの映画がよくある。
だから、そもそも、泣きに行っているお客様もいると思う。
或いは泣くような映画を期待しているお客様も。
一緒に行く人なんかは、俺は絶対に泣かないけどなって思ってるかもしれない。
でも、そういうのと違うんだよ。
何気なく、ふらっと映画館に入った人だとか。
或いは、前情報なく、日本の映画ですか?と映画館に入ったどこかの国の人だとか。
そういう人が、不意打ちのように、泣いてしまう。
そういう芝居って、絶対にあるぜって思っている。

少なくても、この映画の自分の役に、おいらは泣ける。
なぜ泣けるのか。どこが泣けるのか。何が切ないのか。
自分で分析しなくちゃなと思う。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 02:04| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする