作家の真似ごとをしたことがある。
いわゆる作家とは文章を書く人の事だとするのか。
文章を書いて、対価を貰っている人の事を言うのか。
よくわからないけれど、一応、対価を貰ったこともある。
とは言え、真似ごとレベル。
独自の文章でもなく、いわゆるクライアントに頼まれたライター的なこと。
だから、むしろ、対価など貰っていないけれど。
若き日に自分で舞台をやろうと、台本を書いた日の方がよほど作家だなぁと思う。
舞台の台本で4本、ショートフィルムやオムニバスで数本。
自分の書きたいように書いた・・・わけでもない。
やっぱり、お客様がいるから、そこを意識して、俳優も意識して、段取りも意識して書いた。
それは、孤独な作業で、一人での格闘だった。
何よりも、大きなプレッシャーとストレスとどう付き合っていくかという作業だった。
おいらなりにだけど。
作家の過酷さは知っているつもりでいる。
デビッド・宮原が「セブンガールズ」の映画シナリオの初稿を脱稿した。
初稿とは言うけれど、初演の14年前から15稿でやっと完成だよ!
なんて冗談とも本気ともつかない言い方をしていた。
繰り返し書き直されてきた上演台本を、シナリオにコンバートしただけかもしれない。
それでも、孤独な作業であったことは疑いようがない。
どこをどうするか。シーンの並びはこれでいいのか。映像なら必要になるのはどんなことか。
考えなくちゃいけないことはやまほどある。
上演台本をただカット割りしていくだけの作業ならどれほど楽だっただろう。
舞台が映画になるという事は、視点が変わるという事だ。
デビさんの頭の中で、様々な視点が生まれて、様々な視点で書いている。
楽しかった部分もあると思うけれど、その殆どは、大変な作業だったはずだ。
はじめは、頭の中の妄想でしかない物語が文字になる。
その文字を手に入れた俳優たちが、妄想であった物語を立体化していく。
そこから先は孤独な戦いではない。
むしろ、他者との共同作業に移行していく。
でも、その前に必ずあるんだ、孤独な作業が。
舞台の台本は何度も書いてきたけれど。
2時間の長編映画のシナリオはさすがに初めてのはずだ。
泣きめし今日子はシナリオで分量は変わらないと思うけれど、連続ドラマだった。
恐らく、実感が全然違うはずだ。
脱稿した今、どんな気分だろう。
確実に一つのヤマは乗り越えたのだから。
到達感はあると思う。
その先にまだ道は続くのだとしても。
稽古後、デビさんとのやり取りの中で。
改訂頑張るよ!と、メールが入る。
今日の稽古で、どこを直そう、どこをいじろうという部分もあったと思う。
書かれた文字が、役者の肉体を通した言葉になった時。
頭の中に思い描いていた映像は、更に進化したのだと思う。
そう。
初稿。
これはスタートラインだ。
改訂が入るかもしれない。
稽古中に変わるかもしれない。
撮影中に変わるかもしれない。
編集段階で変わることだってある。
創作物をここから、クリエイトする作業がスタートするんだ。
今は、ただただデビさん、お疲れさまでした!だ。
誰も手伝うことが出来ない作業。
外から、応援しているしか出来なかった。
頭の中に映像が流れているかもしれないけれど、少しだけでも休んで欲しい。
休んだら。
クリエイティブな作業が始まる。
どんどん良いものにしていく作業をしていかなくちゃだ。
ここから先は、おいらたちも芝居を通じてたくさんの提案をしていかなくちゃ。
テケテテッテテー
賢者の地図を手に入れた。
勇者よ!さあ冒険のスタートだ。
進め!進め!立ち向かえ!