おいらが子供の頃は、カメラと言えばフィルムだった。
カメラにフィルムをセットすると全部撮影してからじゃないと蓋を開けちゃいけない。
途中でふたを開けちゃうと、写真が全部だめになっちゃうと聞いていた。
だから、撮影しきってないと、そのままカメラの中に残しちゃって、次の機会の現像まで見れない事なんかもあった。
撮影したフィルムは、写真屋さんに持っていって現像してもらう。
現像までは時間がかかって、いついつ以降に受け取りに来てくださいなんて言われる。
受取に行って、ようやく、その写真が見れる。
その時になって、ようやく手ぶれしていたり、ピントが合っていなかったりに気付く。
写るんです!なんていう使い捨てカメラも流行ったけど、あれも基本は同じだった。
どんな写真が撮影されているかもわからないまま、パシャパシャとシャッターを押していた。
あの頃の感覚を思い出せと言われても、ちょっと不可能に近い。
その感覚がどんな感覚だったのか、どうしても思い出すことが出来ない。
どんな気分で、どんな基準で、写真を撮影していたんだっけ?
まったく思い出せないのはなんでだろう?
だから、デジタルカメラが出てきて、一番驚いたのは、現像前に写真を確認できることだ。
いや、現像前どころか、撮影直後と言った方が良い。
しかも、紙に印刷する前に、データの削除まで可能になった。
指が映っちゃったり、ぼやけていたり、そんな写真は、わざわざお金を出して現像する必要が亡くなった。
まだフィルムが途中だ・・・とか、残り5枚フィルムが残ってるから、なんか撮ろうか?とか。
そんな概念はあっという間に、消え去った。
おいらの、写真撮影に関する感覚はあっという間に上塗りされて、過去の感覚はどこかに消えてしまった。
それがいつの間にか、携帯電話のおまけの機能になった。
おまけの機能だったはずなのに、今では、カメラの性能が売りの携帯電話が発売されている。
おいらは、あまりカメラ機能は使わないんだけど、見ていると、何枚も皆、気軽に写真を撮影しているもんね。
撮影が、とても身近になったのだろうなぁって思う。
目にしている雑誌や、テレビや、映画も、全てデジタルで撮影された写真や映像になった。
デジタルになってからは、本当にあっという間に広がったなぁっていうイメージだ。
ただ・・・身近になりすぎて、ちょっとだけ、おかしなことが起きているよなって思っている。
身近になったカメラは、自分を撮影する自撮りという文化を生んだ。
少しでもかわいく写りたいという願いは、どんどん新しいテクニックを生んでいく。
上から撮影した方が良いとか、輪郭は片側だけとか、手を添えるとか・・・。
よくわからないけれど、こう撮影すると誰でも可愛く写るよ!なんてサイトが出始めた。
10代の女の子なんかは、すぐにそれに飛びついて、皆が同じポーズで写真を撮影する。
当たり前だけど、最終的に、写真の修正や編集のテクニックまで進む。
目を大きくしたり、顔を小さくしたり、肌を白くしたりが当たり前になっていく。
そこまでなら、まだ、なんとなく理解できるのだけれど。
そうやって、少しでも残る自分をきれいにしようと努力することは悪くないからさ。
でも、写真や動画という、現実を写した映像が真実と混同し始めている。
例えば、黒目が大きくなるコンタクトレンズをつけるのが当たり前になった。
目頭を切開している女の子を普通に街中で見かけるようになった。
必要以上にアイメイクに時間をかけて、もう元の顔がわからないぐらいになってる。
最近、テレビドラマや、映画のポスターでも黒目の大きくなるコンタクトをしているのを発見して、だいぶ、引いた。
まぁ、それは現代劇のドラマだし、現代劇の映画のポスターなんだから、現代的で不自然はないのだけれど。
・・・いや、不自然と感じていないのだ、たぶん。
黒目が異常に大きくて気持ち悪いぐらいなのに、その方が自然だと感じるようになっているのだと思う。
フィルム時代の感覚を忘れたように、黒目が小さかった頃の顔の写真が残るイメージがもうないのだ。
三白眼の美人なんて、もう、どこにもいなくなってしまったのだ。
そのうち、時代劇でもコンタクトをつけているのを見つけるんだろうな。おいらは。
黒木華さんは、昭和顔なのではなくて、現代な顔にしないようにしているだけだと思うよ。
そして、「決め顔」を持っている。
これには本当に驚く。
実は、おいらは役者なのに、決め顔というのがよくわからない。
自分の顔で一番の決め顔を作ってと言われても、何をしていいのかすらわからないのだ。
気付けば液晶で確認できるカメラが手元にあった世代には、意味が分からないかもしれないけれど。
アイドルであったりモデルの場合は、仕事として「決め顔」を持っている。
ある時代の映画俳優たちも持っていた。
でも、演技とは何だろうということが、どんどん先人たちによって理解されていった時に。
演技と「決め顔」は対極にあるものだという事が、ハッキリしてきている。
役者はその時を、生きているもので。
その生きた表情をカメラマンが撮影して、監督が切り取っていくのだ。
創られた表情は結果的に、映像にした時に不自然なものになってしまう。
湧き上がった、生まれた表情こそ、必要なものだからだ。
今、若い俳優に芝居を教えている人は、決め顔をさせないところからスタートしなくてはいけない。
生きている表情の持つ説得力に、作った表情が勝てるわけがないからだ。
なんというか、面白いなぁとは思う。
おいらが子供の頃のフィルムの時代は、写真と言えばピースばかりだった。
全員がカメラ目線の写真ばかりがアルバムに並んでいる。
ただ、結果は現像しないとわからないから、それほど決め顔が得意なわけじゃなかった。
今は、カメラが日常にあるから、ドキュメンタリー的な写真や映像もやまのようにある。
カメラ目線じゃない写真も普通になっている。
おかげで、作られた劇は、よほど細かく構築しないと、嘘だとバレるようになってしまった。
それなのに、その時代に育った世代は、むしろ、顔を作ってしまう。作り方を覚えてしまっている。
同じ進化の中で、反比例のように進んでいて、なんというか、面白い。ポジとネガだ。
デジタルとフィルム。
どちらかしか馴染みがない世代の方が多い中。
両方を知っているという事は、なんとなく、良かったなぁと思う。
もちろん、弱点やコンプレックスも多いけれど。
決め顔を持っていないというのは、同時に弱点でもあるはずだから。
映画はデジタルで撮影する。
確認しようと思えば、すぐに映像の確認はできる。
でも、それをする時間は殆どないだろう。
つまり、編集後まで、自分がどんな風に映っているのかわからないのだ。
それはまるで、あの頃の写真。
昔のアルバムを見るように。
そこに、生きている空気まで感じ取れるような。
そんな表情を、その時のおいらは、出来ているのだろうか。