昨日もらったシーンの解析を続ける。
前のシーンで、部屋に小道具を置いた場合。
少し後でも、同じ日ならその小道具がないとどこに行ったんだ?という話になる。
今日はそういうのをいくつか見つけた。
時系列でまとめるだけで、必ず発見がある。
作成して、早速、劇団員全員に転送する。
これを更にみんなで見てくれたら、より見落としがなくなるはずだ。
昨日、部屋の中から廊下に繋がるシーンを稽古していた。
稽古を見ていたら、廊下に出ていく女優を目で追っている女優がいた。
あれ?おかしいぞ。と思った。
稽古場では、廊下と部屋を仕切る壁がない。
いや、撮影現場でもカメラの取り回し上、壁が開いている可能性がある。
でも、本来はそこに壁があるわけで、目で追う事なんて本来は出来ない。
目で追うのであれば、立ち上がって、部屋の出入り口まで進まないといけない。
なんとなく、当たり前に稽古をしていると、そんなことが起きる。
すぐに、そこ、壁があるんじゃない?って言った。
そしたら、そうだな・・・と、デビッドさんが、どんどんこうした方が良いって芝居を説明しだした。
廊下の音が聞こえたら、音の方を向くのではなくて、顔を見合したほうが良いとか。
そこは、ちゃんと止めに行った方が良いとか。
ここは、リアクションが3つないとおかしいよとか。
どんどん、要求が増えていった。
その稽古がね。
とてもとても、良かった。
ためになった。
ああ、ここがディティールだよな。
そう思えることが、いくつもあった。
あ、これ、映画になっていってるなという実感があった。
多分、逆もあって、そこで細かすぎる芝居をしているメンバーもいて。
大勢のシーンだったから、細かすぎて、何も伝わってない芝居もあったと思う。
その辺は、とても面白いことで、なんというか覚えておかないとと、思ったのです。
映像の芝居って、ひょっとしたら、全てが正解なのかもしれないなって思いましたよ。
何故なら、シナリオを読んで、役を自分に入れて、芝居をする。
それを、どう撮影しようが、どう編集しようが、なんならカットだって出来るのだから。
いわゆる芝居は素材でしかなくて、正解も不正解もないものなのかもしれないなと。
ただ、「当たり」が時々あるのだと思うのです。
この芝居は当たりだ!他をカットしてでも、この芝居は見せたい!そういうコト。
それは、たぶん、すごい大事なコトな気がします。
先日書いた、たけしさんの本にね。
「役者の芝居合戦はいらない」って書いてあったの。
んー、おいらの解釈で簡単に書いてしまうと。
良い役者っていうのは、たっぷりの間で、印象的な芝居をしちゃうらしい。
で、それは、確実にお客様や映画評論家に評価される素晴らしい芝居なんだってこと。
でもね、それをやられちゃうと、困ると。
そんな印象的にしたいシーンじゃないのに、その役がやけに立っちゃうわけだから。
監督の頭の中にある作品的には、不要な良さなわけです。
良い役者が何人も揃うと、その芝居合戦をし始めちゃって、そうなるともう自分の映画にならないようです。
だから、そういう役者はいらないってなっちゃうって。
だから、製作サイド、監督サイドからすれば、お客様や評論家に評判が良くても、使いにくい役者だってことになるみたいで。
この辺、非常に難しいなぁと思ったのだけれども。
多分、一つの作品の中で、自分勝手に勝負出来るカットなんか、1つか2つなんじゃないかなぁって思った。
ゼロである必要はないのかなって思うけれども。
やっぱり、監督の頭の中にあるテンポ感や、シーンをまず再現するべきだなって。
その上で、ここだけはって場所で、当たりを出せる。
そういう役者が、きっと、現場でもお客様にも、評価されてきているんじゃないかなって。
自分が映像素材になれるかどうか。
そこから、始めて。
その上で、当たりも出していく。
すごい面白い作業だと思うの。
あえなくカットされちゃう場合もあるけれどさ。
そういう部分をクリアしないと、本当は、感情表現まで進めないんじゃないかなって。
デビッドさんが、どんどん何かをいう時に。
あ、監督は今、こういう素材を求めているぜ。
と気付いて、すぐにその場でやれる、反射神経が必要だな。たぶん。
気付く修行と、その場でやれる修行。
二つ訓練しないと出来ない奴さ。
自分のプランがあっても、その場で切り替えられるタフさも必要になる。
やりがいがあるじゃないか。
自分だったら、あの時、どうやったかな?
どんどん要求が増えていった時。
どう対応できたかな?
想定しながら、想像しながら。
自分でもやってみたりするのです。