瓶のコカ・コーラの曲線のフォルムが女体を模しているのは有名な話だ。
性的な描写は、人間の本能に直接的な刺激を与える。
最近では色相学が発達していて、色によっても脳に直接的な刺激を与えるという。
マタドールの赤いマントに飛び込む牛のごとく。
人は意識下、無意識化に関わらず脳が直接反応して、本能的に感じることがあるという事だ。
エロの要素は、直接本能に働きかけて、魅力的に映る。
多くの映画で漫画で小説で。
物語の中で、エロは効果的に扱われてきたと思う。
それは、ポルノというジャンルではなくてもということだ。
頭で考えるのではなくて、感じてほしい場面などで、計算して配置しているエロも数多い。
少しだけドキリとさせるような配置をあえて、その場面に入れるというのは良くあることだ。
主人公が大ピンチで、クライマックス直前、人質の女性の胸元が見える。
ドキッとさせた途端に、怒涛の展開から泣きの展開に進んでいく。
怒涛の展開はものすごいテンポで、血も流れる。
本能に直結する表現が並んで、緊張状態をマックスに持っていってから、最後に落とす。
安心感や安堵感は、涙の表現をより一層際立たせる。
ハリウッド映画などは、クライマックスの緊張感を高めるためのテクニックとして既に確立されている。
こんなふうに書くと、なんだよ、それ!つまらない!と思うかもしれないけれど。
これはオーソドックスなパターンなだけで、これを様々にアレンジしている。
なによりも、面白い。
決して、どんな映画もワンパターンでつまらないということではないのだ。
むしろ、エロという本能に働きかける要素を取り込むなんていうのは、クラシックな技法だ。
絵画でも彫刻でも、遥か大昔から、芸術家たちが繰り返してきたことだ。
裸婦や裸像なんてジャンルがあるほどだ。
本能に直接働きかけるものとは、つまり「美」だとする考え方もあるのだ。
美しいと感じるものは、景色だって、なんだって、そこに本能的に訴えるものがあるはずだという考え方。
そして、それはおいらなんかは、とても納得できる。
別にエロに特化したわけではなくて、大自然の景色なんかは、本能に訴えかけるに決まっているからだ。
音楽だって、胎内で聴いた母親の鼓動が、リズムの基本だと聞いたことがある。
「セブンガールズ」は、エロの描写を計算して配置する必要がないだろうと思う。
実際、物語が展開する場所が、パンパン宿だし、登場人物が娼婦だ。
物語の前提として、すでに、性的な設定が並んでいる。
そして、そういう時代だから、男の暴力的な描写も並んでいる。
もう既にエロが日常なのだから、配置する意味がない。
だからむしろ逆の心配をしている。
日常になりすぎて、エロの要素、性的な場所であること。
そこの表現が軽くなっちゃうのではないかと。
何よりも俳優がその部分を日常的な方向にしてしまう可能性があると思っている。
普通の女性の恋になってしまったら何の意味もない。
普段、体を売っている娼婦の恋に見えなければ、この作品は成立しない。
大前提として、性的な存在であるという事を、表現しなくてはいけない。
簡単なようでいて、実はそんなに簡単じゃないと思う。
娼婦の映画は数多く存在するけれど、意外に中盤以降は普通の女性に見えてしまう事はよくあることだ。
その役を深く理解しようとすればするほど、より人間的な理解が進んで、外側から見た娼婦と言う存在から離れるのだろうと思う。
アダルト女優と言うわけではなく。
女優として、最初から最後まで、エロをどこかに感じさせなければいけないと思う。
これは、実は女優だけじゃなくて、男もだ。
こういう場所に出入りする男なのだから、当然、必要な事だ。
色気は、本能に訴えかける。
最初に書いたことからすれば、つまりそれは、美そのものだ。
パンパン小屋が美になってしまうのだとすれば、それはパラドクスだ。
けれど、なんとなく、それは理解できる。
ネオン街が持っている怪しい魅力とは、そういうものだからだ。
そういう場所だからこそ。
人間性が際立つと思っている。
前提の芝居。ルールを自分に課した芝居。
その中で、人間性を出せれば、この作品は、ものすごい魅力を持った作品になるはずだ。
エンターテイメントでありながら、アートにすらなるだろう。
そのことを考えるだけで、ワクワクする。
今日、多少のスケジュール調整があった。
そして、スタッフさんがいよいよ決まってきた。
素晴らしいスタッフさんだ。
俳優部は、全てのスタッフさんが揃ってTEAMになる前に、自分たちの目指す方向性を固めるべきだと思う。
そうすれば、より強固で、意思疎通の取れたチームになるだろうから。
まだまだやれることがある。
そう思う。