2016年05月10日

壁越しの君はどんな顔をしていたの?

セブンガールズの舞台は、パンパン宿の前のセットを組んだ。
室内のシーンや、回想のシーンはあったけれど、基本的にはパンパン宿前で物語が展開された。
舞台には上手と下手があって、空間が限られていた。

映画になればそれががらりと変わる。
室内のセットも必要だし、パンパン宿から離れた場所も必要になってくる。
今まで舞台では見れなかった場所が、映画には出てくる。

でもそれだけじゃないんだな。
室内も室外もあるというのは観念的に言えば。
ウチとソトという概念があるということになる。
壁一枚で、ウチとソトという世界の違いが描かれる。
そういうことになる。
ウチとソトという概念は、演技にとってはもっとも原始的なテーマだ。
心と表情など、全てがウチとソトという概念で説明できる。

そして境界線は、様々な表現を生み出す。
例えばそれは壁越しの演技だったりする。
壁の向こうから聞こえてくる声、物音、気配。
扉を閉じてからの、一瞬の開放。
境界線を軽々と飛び越える表現。
ウチとソトという概念があるからこそ成立する表現が山のように生まれてくる。
舞台であれば、玄関を開けたら、そこに人がいた。なんてことがある。
それが、映像なら、玄関の中で外をどんなふうに気にしていたかも表現できる。

ただしそれは、編集された映像ならということだ。
舞台と違って、映像では必ずしも壁の向こうに誰かいるとは限らない。
気配がないのに気配を感じる芝居が必要だという事だ。
ウチとソトと何度も出入りする俳優だったら、そんなに難しくないと思うかもしれないけれど。
難しくはないけれど、別に簡単でもないと思う。

石の文化とは違ってその豊富な山林資源で木の文化を発展させてきた。
日本家屋は驚くほどオープンだし、境界が曖昧だ。
だからこそ、日本人には結界という意識が強い。
不浄の間があったり、男子禁制や女子禁制があったり。
離れがあったり。
或いは、ウチとソトの境界線そのものの、縁側を作ったり。
世界は常に繋がっていて、同時に分かれている。
そのことを日本人は生活感覚で知っている。
焼野原になって、あおぞら天井になった後にあっという間にバラック街が建ったという。
それは、住居を創ることと同時に、結界を創ったという事だ。
そういえば、震災の避難所でも、パーティションを組む。
パーソナルスペースと言う言葉とは少し違う。
結界が日本人には、必要なのだと思う。

デビッドさんは、きっと自然と、ウチとソトという概念をシナリオに書いている。
計算しているわけではなくて、肉体感覚にその概念があるのだろう。
だとすれば、俳優たちにもきっとあるはずだ。
それを自然に・・・そして表現として成立させるのが俳優の仕事だ。

パンパン小屋と言う性的な場所。
そこにあるウチとソト。
娼婦の本音と、客前の顔。
男達の野心と、心根。
それは、きっと、矛盾に溢れていて、同時に息づいている。
全てが雑多に内包されている。

ふすまを閉めて。
初めて、息をつく。
隣に人がいても、もう見えないから。
そこで、ほんの少しだけ、本音が出る。
そのわずかな結界の出入りを、表現できれば、きっと最高なんだけどな。

ふすまの向こうには、ひょっとしたら、妖怪が座っているのかもしれないよ。
壁の裏には、悪い人が立っているのかもしれないよ。
心の中には、ダメな自分がいるのかもしれないよ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 01:49| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする