2016年05月22日

全員で準備できる強み

今日は本読み稽古前の準備だ。
そしてシナリオも初稿の脱稿になる。
来週の本読みに向けて、準備できるものを全て準備する。
とりあえず今必要なものはすべて用意した。

今日の稽古は大事だ。
来週の稽古の前に、全員でやれることをやろう。
恐らくキャスティングが全て終わることはないだろうけれど、仮の配役は必要になるだろう。
何人かに割り振りも必要になってくるし、潤滑に進めるための準備も必要だ。
シーン順の香盤表も仕上げて、明日はコピーして配る予定。
シナリオが書き換わるたびに編集をし直さなくてはいけないけれど、土台があれば今後も早い。

そしてその稽古が終われば、来週の稽古に向けて、連絡をしなくてはいけない。
ちゃんと連絡が出来るようにしなくちゃだ。

まだまだ撮影までは時間がある。
この本読みを越えたら、そこで演出をつけていく。
逆に言えば、ここを越えないと演出に入ることすら叶わない。

なんというか、今まで少しずつシナリオを映像だったらこうなるかなという稽古だったのだけど。
今日の稽古から一段ステップアップするだろうなという予感がある。
シーンを成立させること、前後のシーンとのつながり、作品全体の中のシーンの役割。
そういうものをもっとわかって、部分的な稽古とは変わってくるはずだ。
だからこそ、重要だ。

今、プリンターが、色々出力している。

厳しいこともあるだろうか。
楽しいこともあるだろうか。
一体、今日を越えて、何が見えてくるだろうか。

自分に必要な事、足りないモノ。
その感じがなんとなくでも、おぼろげでも、見えてくればいいな。

万全の状態で、スタッフさんに本読みを見せられるように。
イメージを膨らませることが出来るように。
やりすぎなぐらい、入念に準備しよう。

劇団の強みだ。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:14| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月21日

ルールより大事なもの

沖縄でアメリカ駐留軍軍属の男が女性を襲って捕まった。
軍属に関わらず、最低最悪の事件だ。
なぜここまで報道されるのかと言えば、軍属の場合、日本の警察が逮捕することが出来ない場合があるからだ。
場合によっては、アメリカでの裁判になってしまい、日本ではどうにも出来なくなる。
今回の事件は可能だと判断し逮捕したと報道されている。
そんなやりきれない事件が、今まで何度となく繰り返されてきた。

男が女性を襲い死に至らしめるという事件は何も軍属や兵士に限ったことではない。
今までもそんな事件は何度となく繰り返されてきている。
絶対に許してはならない事件だし、そのために、司法がある。
どんな人間にも罪を犯す可能性があるし、逆にアメリカ軍にも良い人はいる。
一定数の、罪を犯す可能性のある人間がいる限り、司法の手が届かない人がいるのはなんとかならないのだろうか。

終戦直後。占領下は、もっとひどかった。
占領軍は、人を殺そうが女性を犯そうが、当然自治権のない日本で裁くことが出来なかった。
占領軍内の裁判でしか裁かれなかったわけで、信じなれないような強姦事件の数が記録されている。
占領軍だけにとどまらない。
戦中からいた、在日の各アジア人も、敗戦国日本の国民ではないから、裁く機関がなかった。
闇市を仕切っていたのが、在日別国籍の組織で、それが愚連隊になり、日本のヤクザと抗争を繰り返し、暴力団に発展すらしている。
それは、現在の暴力団にも繋がっている。
司法の手が届かないというのはそういう事だ。
悪いことしても裁かれないのだとすれば、悪は自由に増長していく。
信じられない事だけど、警察機関と銃撃戦をしたという記録まであるのだ。
そんな人ばかりだったわけではないけれど、そういう人もいたという意味でだ。

もちろん、今の憲法や民法が完璧だとは言えないけれど。
司法が完璧じゃない一時期というのが、終戦直後だ。
小説でも出てくるいわゆる「戦後のどさくさ」という奴だ。
戦後のドサクサは、現在に至るまで、様々な痕跡を残している。
それこそ、ここからここまでは、俺の土地だ!と言い切って、そのまま土地成金になった者だっている。
物不足の中、横流しをして、流通大手になった企業だってある。
地元の闇市の用心棒から、政治家に成りあがった人も本当にいる。
様々な仕事と仕事を繋ぐプロデューサーのような口利き屋が、ゴト師と呼ばれるビジネス界の大物になったりしている。
自治権を回復するまでの期間。
日本は、その長い歴史でも類を見ないほど、どろどろの混沌の中にあった。

その中で、もちろん、成り上がりたいという者もいたけれど。
その殆どが、今日をどうやって生きていけば良いのか悩んでいる人が多数だった。
或いは、家族のために、或いは、仲間のために。
良心で必死に生きている人が殆どだったことは間違いがない。
或いは、復興を目指す人もいたし、自治権の復活を目指す人ももちろんいた。
不合理な無法地帯に一定のルールを目指す人もいた。
地元の日本ヤクザによっては、警察機関の代わりに、真知の治安を守る団体もあったという。
悪意や欲望、野心も確実にあったけれど、国民の殆どが再び訪れるであろう平和な国を目指していた。

全てが現在に繋がっているけれど。
敗戦のショックの後、日本は試されたのだと思う。
ある一定数の悪はどうやったっている。
それを取り締まる司法がなければ自警団を作る。
食べる物がなければ、地方に足を伸ばす。
仕事がなければ自分たちで仕事を創る。
この国がどんな方向に進んでいくのか、その時期に浮き上がってきた国民性が方向づけたのだろうなぁと。

つまり結局は、司法でも法律でもない。
人が人の中で持つ、良心や道徳観こそが、本当の平和を生むという事だ。
例外は必ずあるけれど、それが例外であって普通ではない限り、一定の規律は続く。
司法も法律も必要だけれど、それはあくまでも線引きでしかない。
それを悪用しようとする人間がいた時に、悪用できないように直していくだけのものだ。

今、沖縄米軍の中にも、そんな良心をもった人がいて、胸を痛めているだろうと思いたい。
完全な根絶は不可能だとしても、これが恥ずべきことで、なくすべきことだという理解を広めてほしい。
こんなことは、例外なのだと思いたい。
なんとかアメリカでの裁判にしようなどという動きだけは見せないでほしい。


もう占領されていないもんな。
そんなわけないもんな。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 18:13| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月20日

写真屋さんにお使いに行ったあの時のように

おいらが子供の頃は、カメラと言えばフィルムだった。
カメラにフィルムをセットすると全部撮影してからじゃないと蓋を開けちゃいけない。
途中でふたを開けちゃうと、写真が全部だめになっちゃうと聞いていた。
だから、撮影しきってないと、そのままカメラの中に残しちゃって、次の機会の現像まで見れない事なんかもあった。
撮影したフィルムは、写真屋さんに持っていって現像してもらう。
現像までは時間がかかって、いついつ以降に受け取りに来てくださいなんて言われる。
受取に行って、ようやく、その写真が見れる。
その時になって、ようやく手ぶれしていたり、ピントが合っていなかったりに気付く。
写るんです!なんていう使い捨てカメラも流行ったけど、あれも基本は同じだった。
どんな写真が撮影されているかもわからないまま、パシャパシャとシャッターを押していた。

あの頃の感覚を思い出せと言われても、ちょっと不可能に近い。
その感覚がどんな感覚だったのか、どうしても思い出すことが出来ない。
どんな気分で、どんな基準で、写真を撮影していたんだっけ?
まったく思い出せないのはなんでだろう?

だから、デジタルカメラが出てきて、一番驚いたのは、現像前に写真を確認できることだ。
いや、現像前どころか、撮影直後と言った方が良い。
しかも、紙に印刷する前に、データの削除まで可能になった。
指が映っちゃったり、ぼやけていたり、そんな写真は、わざわざお金を出して現像する必要が亡くなった。
まだフィルムが途中だ・・・とか、残り5枚フィルムが残ってるから、なんか撮ろうか?とか。
そんな概念はあっという間に、消え去った。
おいらの、写真撮影に関する感覚はあっという間に上塗りされて、過去の感覚はどこかに消えてしまった。

それがいつの間にか、携帯電話のおまけの機能になった。
おまけの機能だったはずなのに、今では、カメラの性能が売りの携帯電話が発売されている。
おいらは、あまりカメラ機能は使わないんだけど、見ていると、何枚も皆、気軽に写真を撮影しているもんね。
撮影が、とても身近になったのだろうなぁって思う。
目にしている雑誌や、テレビや、映画も、全てデジタルで撮影された写真や映像になった。
デジタルになってからは、本当にあっという間に広がったなぁっていうイメージだ。

ただ・・・身近になりすぎて、ちょっとだけ、おかしなことが起きているよなって思っている。

身近になったカメラは、自分を撮影する自撮りという文化を生んだ。
少しでもかわいく写りたいという願いは、どんどん新しいテクニックを生んでいく。
上から撮影した方が良いとか、輪郭は片側だけとか、手を添えるとか・・・。
よくわからないけれど、こう撮影すると誰でも可愛く写るよ!なんてサイトが出始めた。
10代の女の子なんかは、すぐにそれに飛びついて、皆が同じポーズで写真を撮影する。
当たり前だけど、最終的に、写真の修正や編集のテクニックまで進む。
目を大きくしたり、顔を小さくしたり、肌を白くしたりが当たり前になっていく。

そこまでなら、まだ、なんとなく理解できるのだけれど。
そうやって、少しでも残る自分をきれいにしようと努力することは悪くないからさ。
でも、写真や動画という、現実を写した映像が真実と混同し始めている。
例えば、黒目が大きくなるコンタクトレンズをつけるのが当たり前になった。
目頭を切開している女の子を普通に街中で見かけるようになった。
必要以上にアイメイクに時間をかけて、もう元の顔がわからないぐらいになってる。
最近、テレビドラマや、映画のポスターでも黒目の大きくなるコンタクトをしているのを発見して、だいぶ、引いた。
まぁ、それは現代劇のドラマだし、現代劇の映画のポスターなんだから、現代的で不自然はないのだけれど。
・・・いや、不自然と感じていないのだ、たぶん。
黒目が異常に大きくて気持ち悪いぐらいなのに、その方が自然だと感じるようになっているのだと思う。
フィルム時代の感覚を忘れたように、黒目が小さかった頃の顔の写真が残るイメージがもうないのだ。
三白眼の美人なんて、もう、どこにもいなくなってしまったのだ。
そのうち、時代劇でもコンタクトをつけているのを見つけるんだろうな。おいらは。
黒木華さんは、昭和顔なのではなくて、現代な顔にしないようにしているだけだと思うよ。

そして、「決め顔」を持っている。
これには本当に驚く。
実は、おいらは役者なのに、決め顔というのがよくわからない。
自分の顔で一番の決め顔を作ってと言われても、何をしていいのかすらわからないのだ。
気付けば液晶で確認できるカメラが手元にあった世代には、意味が分からないかもしれないけれど。

アイドルであったりモデルの場合は、仕事として「決め顔」を持っている。
ある時代の映画俳優たちも持っていた。
でも、演技とは何だろうということが、どんどん先人たちによって理解されていった時に。
演技と「決め顔」は対極にあるものだという事が、ハッキリしてきている。
役者はその時を、生きているもので。
その生きた表情をカメラマンが撮影して、監督が切り取っていくのだ。
創られた表情は結果的に、映像にした時に不自然なものになってしまう。
湧き上がった、生まれた表情こそ、必要なものだからだ。
今、若い俳優に芝居を教えている人は、決め顔をさせないところからスタートしなくてはいけない。
生きている表情の持つ説得力に、作った表情が勝てるわけがないからだ。

なんというか、面白いなぁとは思う。
おいらが子供の頃のフィルムの時代は、写真と言えばピースばかりだった。
全員がカメラ目線の写真ばかりがアルバムに並んでいる。
ただ、結果は現像しないとわからないから、それほど決め顔が得意なわけじゃなかった。
今は、カメラが日常にあるから、ドキュメンタリー的な写真や映像もやまのようにある。
カメラ目線じゃない写真も普通になっている。
おかげで、作られた劇は、よほど細かく構築しないと、嘘だとバレるようになってしまった。
それなのに、その時代に育った世代は、むしろ、顔を作ってしまう。作り方を覚えてしまっている。
同じ進化の中で、反比例のように進んでいて、なんというか、面白い。ポジとネガだ。

デジタルとフィルム。
どちらかしか馴染みがない世代の方が多い中。
両方を知っているという事は、なんとなく、良かったなぁと思う。
もちろん、弱点やコンプレックスも多いけれど。
決め顔を持っていないというのは、同時に弱点でもあるはずだから。

映画はデジタルで撮影する。
確認しようと思えば、すぐに映像の確認はできる。
でも、それをする時間は殆どないだろう。
つまり、編集後まで、自分がどんな風に映っているのかわからないのだ。
それはまるで、あの頃の写真。
昔のアルバムを見るように。
そこに、生きている空気まで感じ取れるような。
そんな表情を、その時のおいらは、出来ているのだろうか。
posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:12| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする