打ち合わせでも出た話だけど、今回の映画では劇団員も色々と準備をすることになる。
撮影に入れば役者に集中出来る状態にするつもりだけれど、それ以外の部分で。
それはもちろん低予算だからだし、低予算だけどセットを創るとかクオリティを高くする為だ。
低予算なら低予算のやり方があるんだけれど、いかにも低予算の映画にしたくない。
だとすれば、自分たちでやれることをやるのが一番だ。
本当にセットも何もない状態で、拘らないのであれば不可能じゃないけれど。
やっぱり、1mmでもいいから良い作品にしたいと思えばそういうことになる。
でも何度か書いたけれど、そのことに余り大きな違和感がない。
何故なら小劇場の世界で舞台をやるなら、当然の事だからだ。
小劇場は、大抵どこの劇団でも役者がたくさん働く。
それはもちろん、人件費の削減であったり、致し方なくそうなったのかもしれない。
でも、そういう現状を見て、
「本当は役者は芝居だけに集中した方が良いに決まってる」
的な意見は、おいらは、実はとてもとても違和感がある。
色々な仕事をいとわない人ほど、この言葉は言わない。
芝居に集中するのは当たり前だし、他の事をやるのもそんなに悪くない事だからだ。
なぜ、悪くないと言えるのかといえば、自分がこれまで経験してメリットしか感じていないからだ。
第一に、愛着が違う。
その作品を少しでも良くしようと、大道具を建て込んだり小道具を創る。
場合によっては衣装だって製作する。
それは、愛着を生む。
まぁ、道具に偏向した愛着だとあまり意味がないのだけれど。
それが、作品や自分の演じる役への愛着に直結する場合がとても多い。
自分も1から舞台を創っていくことに参加したという事だけで、作品への愛情が多層化する。
そして、次に大事なことは、スタッフさんとの関係性だ。
一緒に物を創る作業は、その劇場にいるスタッフさんとの距離感を変える。
自然とチームになっていく。
舞台に立つ俳優と、明かりや音や舞台監督などのスタッフさんの息が合うとそれだけで作品性が上がる。
同じ作品を創るという意味では、俳優もスタッフもない。全く同じ立場だ。
変に距離を縮める必要性はないけれど、一体感を感じるぐらいのチームになるのは大事な事だ。
往々にして小劇場の仕込みというのは、チームになっていく儀式でもある。
急速に作品に全員の意識が統一されていくのだ。
これは、恐らく、小劇場の世界にいる俳優の殆どが同意すると思う。
もちろん、技術的な知識を積み上げることも、意外に強力な演技の武器になる。
そこに当たっている照明が凸レンズか凹レンズか知っているだけで、動ける範囲が変わる。
セットの建込みの段階で、袖のパネルの角度の調整が出来る。
演技エリアをギリギリの範囲まで自分で広げることが出来る。
知っていれば知っているほど、それを生かすことが出来る。
本番中に、何か落としても、どこからなら拾えるとか、どこに蹴っ飛ばせば大丈夫とか。
そういうことまで、完全に把握できる状態で芝居が出来るのだ。
空間を完全に把握している俳優とそうじゃない俳優ではダイナミクスが違ってくる。
今、映画でもテレビでも小劇場出身俳優が引っ張りダコだけれど。
その理由の一つが、スタッフさん受けが良いからだという。
スタッフさんの作品に対する気持ちを、自分でも経験しているから理解しやすいのだ。
ベテランの俳優さんほど、スタッフさんとの関係性が深いというけれど。
それは、すごく当たり前で、一番大事な事だ。
どんなに良い演技をしたって、照明が当たらないと、カメラが撮影しないと、音が録音できないと。
結局、何もやっていないことと変わりはしない。
舞台を経験している人はスタッフさんの重要性を最初に理解する。
小劇場であれば、自分でも手伝うのだから、より深く理解しようとするのだ。
そういうことが、挨拶であったり、態度であったり、そういうところに滲み出る。
もし「役者は芝居だけやってればいい」と言える人がいるとしたら。
それは、それこそスタッフさんだけだ。
スタッフさんは、なるべく役者に手伝ってもらわないようにしないとと思ってくれるから。
それはとても正しいし、とても愛情のある言葉なのだ。
でも小劇場に出ている俳優が口にすると意味が変わってくる。
ああ、この人はわかってないなぁって思われるだけだ。
芝居だけやって、良い芝居になるならいいけれど。
良い芝居にするのなら、やっぱり、チームになっていくことも重要なのだ。
そこを理解できない役者が時々、口にしてしまうんだよ。
映像の現場で役者が役者以外の仕事をするなんてことはない。
それは、スタッフさんの仕事を奪ってしまう事になる。
だから、おいらは余計な手出しはしないようにする。
ちょっと、重そうだし持ってあげようかなと思っても、そこで一つブレーキを掛ける。
スタッフさんの持ってるプライドもあるから、下手に手を出さないのだ。
でも、今回は違う。
自分たちで企画を立ち上げて、任せっぱなしではなく、自分たちで創り上げていくんだから。
手法がそのままの劇団の手法なのだ。
今回、初めてのスタッフさんもいるけれど、絶対にチームになっていかなくちゃいけない。
別に仲良しになるという事ではない。
同じ作品に向かうチームになるって事だ。
それは決して、仲良しという事ではない。
チームだ。
最大のメリットは。
結果的に全体を見ることが出来るようになることだ。
自分の役だけではなく、自分の登場シーンだけではなく、箱や客席まで含めた芝居の全体像。
より大きな俯瞰を視点として持てることが、実は役者にとっては一番大事な事なのかもしれない。
役や物語だけを理解している人よりも、劇場の広さや、客先の温度まで理解している人の方が芝居が深くなる。
当たり前の事なんだけど、忘れがちな事だ。
劇団で演出助手を初めてやった役者は必ず口にする。
デビさんの横でダメ出しをメモっている仕事をしているだけで、以前よりも、深く作品を理解できるようになったと。
それは、俳優だけの視点に加えて、演出家の視点を知っていくからなのだ。
今晩や明日の晩。
夜空を見上げた時に。
いつもよりも輝く赤い星があれば、それは久々に近づいた火星だ。
地球も火星も同じ太陽系の中で太陽の周りをまわってる。
物事は常に多面性を持っている。
芝居という嘘の世界は、いつだって、多面性を失ってしまう落とし穴が待ってる。
一元的でも作品が成立してしまうから、簡単に落とし穴に落ちていく。
それはまるで地球上に生きていたら、地球が回っていることに気付かないことに似ている。
そんな時に、空を見るのだ。
太陽が、月が、火星が、星たちが、同じように回っている。
そこで、久々に気付くのだ。
そうか、地球は回っていたんだと。
星々から見た地球ってどんな風に見えるんだろう?
火星から見た地球は何色なんだろう?
少し思いを巡らせただけで、世界はどんどん多重化していく。
役者が作品に思いを馳せるように。
スタッフさんも作品を良くしようと考えてくれている。
そういう多面性を理解していく作業。
おいらは、そんなつもりで、むしろ自分から進んで作品に関わっているのだ。
作品を理解する作業は、役者の仕事だと思っているのだ。
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