2016年04月11日

ならでは

今日もシナリオは進む。
今日のシナリオでは、舞台では書かれなかった心象が描かれていた。
舞台上で、言葉で表現しても伝わりきらず。
かと言って、舞台上で言葉以外の表現方法ではやりすぎになってしまう。
そういう心象風景だ。

映像の持つ説得力は、舞台にはない大きな強みだ。
演技以上の表現力を映像が持つことがある。
或いは演技表現を大きく助けるような映像と言った方が良いかもしれない。
例えば病院のベッドで寝込む少女を見舞う少年のシーンの後に、枝から枯葉が落ちる絵が入る。
ひらひらと落ちる枯葉は何も関係ないはずなのに、シーンを繋げるだけで意味が付く。
枯葉が、池に落ちた瞬間、少年の泣き声が聞こえれば、実際に泣いている少年の顔よりも切なくなったりする。
そして、ゆっくりと枯葉は池の中に沈んでいく。
こういう表現が映像表現だ。
そして、そればかりは、さすがに舞台では出来ない。
頑張って演出したとしても、映像なら理解できるのに、舞台だと説明不足になる可能性がある。
舞台だと、視点が固定じゃないから、情報を集中しづらいからだ。

逆を言えば、こういう映像表現を役者が撮影の段階でどこまで理解できるのかという事だ。
シナリオに描かれている心象風景の全てを役者が完全に理解するのは実は不可能だからだ。
それは、監督の頭の中を覗いてみないとわからないし、編集後に驚くことだってあるはずだ。
シナリオから、なんとか読み解けたとしても、完全な理解ではないはずだ。
完全な理解が出来るのだとすれば、監督なんていらない。
監督の脳の中でしか描けない映像だからこそ、表現なんだから。

だから、物語の流れを主観で追っかけて行って。
そもそも25~30%ぐらいしか理解できないのだと割り切って、自分の表現に集中した方が良いと思う。
演技は時間的につながっていても、映画は編集で軽く時空を飛び越えてしまう。
どんなに想像したところで、無限の可能性がある以上、絶対に100%にはならないのだから。
シナリオでは別のシーンだったのに、編集されたら、同時に進むシーンのように並べ替えてあった。
そんなことが、編集段階で起きてもなんにもおかしくない。
今回なんか群像劇なんだから、余計にそういう事が起きる。

だと言うのに。
今日の新しいシナリオに描かれた心象風景は。
不思議と脳内に映像が作られた。
ああ、こう撮影するな・・・ってすぐに思えた。
これは恐らく、長い年月のなせる業なのかもしれない。
そういう意味では、とてもとても有利だ。
デビッド・宮原がこのシーンで描きたいものが、たぶん、40%ぐらいはわかる。
これは、役者と演出家、役者と映画監督の関係においてもかなりの確率だと思う。
まぁ、別に正確に測った数字ではないけれど、少なくても理解のスピード、瞬発力は違う。

頭のシーンから順に追っているから新しいシーンまでは稽古が辿り着かなかったけれど。
あのシーンは早く観たいなあ。
どうやって、稽古をするだろう?
きっと、回すと思うんだよ、カメラを。
それは、とても面白い稽古になると思う。

映像表現を手にした時に。
デビッド・宮原は、どんな作品を創るだろう?
ダンス、バンド、劇団、作家、様々な経歴を重ねてきて。
初の長編映画で、何をやらかすだろう?
やらかして欲しい。
思う存分に。

稽古前に少し立ち話をしていた。
デビッド・宮原がバンド時代に主題歌を担当した岡本喜八監督の映画「大誘拐」の話だ。
その頃から、映画を、製作という角度からも観ていたんだなぁ。とわかった。
ただ主題歌をやるだけではないなって。
なぜ、最初は余り上映館も少なかったのに、どんどんヒットしていったのか。
そういう事も、きっと、考えていたんだなぁ。
その頃のデビッドさんが、どんな風に、「映画」というものを観ていたのか。
そういう事の一つ一つが、今回、やっと作品になるんだって思う。
腰の重い人だけど。
たくさんの皆様の支援で、その腰をあげなくちゃいけなくなった。
そして、その腰をあげたが最後。
どうやって腰をおろしていいのか、わからなくなっちゃうような人だ。

心象を映像で表現する。
それが楽しみでしょうがない。
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posted by セブンガールズ映画化実行委員長 at 03:01| Comment(0) | 映画製作への道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする