本日は候補地1の彫刻家の方々の展覧会に足を運ぼうと思っている。
もちろん、行ってもあまり会話も出来ないだろうと思うけれど。
実際にあの現場で彫刻をしている姿は何度もお見掛けしているけれど。
それが、ディスプレイされると今度はどんなふうに見えるのか。
なんというか、とても楽しみだ。
折角、足を伸ばすから、その後、少しその近辺の元赤線地帯を観に行ってみようかなぁなどと漠然と考えている。
昔の地図を見ると、足を伸ばせない距離ではないし、現在のその地を見ると建物だけは残っていたりする。
おいらたちは、今度の映画で終戦直後のバラックをイメージしているから、ちょっと違うのだけれど。
おそらく1950年代の、カフェやダンスホールと呼ばれるようになってからの建築が残っているだけだ。
だから、観ても、なんら参考にならないかもしれない。
それでも、なんとなく空気感を感じられるかもしれないと淡い期待を持っている。
それにしても展覧会だとか個展だとか。
年に1度も行かない・・・。
いつも行くと、自分のペースで見続けるだけなのだけれど。
それでも、行くと、何かしらの刺激はいつも受ける。
それと、なんというか、ちょっと特別な時間を過ごしたような気になる。
展示された作品の事だけを考える時間というのは、後から、ああ特別な時間だったと気づく。
おいらたちは、残る芸をやってきたわけではない。
舞台は、刹那の芸だ。
演じても、それは通り過ぎていく。
記録は残しているけれど、それはあくまでも記録でしかない。
音楽の世界に生きる人は、レコーディングとライブがある。
ライブをメインにしている人は、そこで、色々と思考する。
逆にレコーディングをメインにしている人は、ライブについて思考する。
どんな風に挑むべきか。
メインストリームにしているほど、根本的な部分は既に完成しているからだ。
メインじゃないほうが、未完成だから、思考を必要とする。
劇団が映画をやろうと考えることは、やはり、残るモノを創るということに思考が必要だ。
両側からのアプローチは、本当なら自然の事で、もっともっとあっていいものだ。
彫刻や絵画は、残るものだ。
最近は絵を描く姿や、石を掘る姿を見せるライブもあるようだけれど。
基本的には、残るものを創る。
残ったものに誰がどんな思いを描くかは、もう、作家の手を離れていく。
全てが、正解。全てが正しい解釈。
そのぐらい割り切らないと、恐らく残るものなんか創れない。
ピラミッドや古墳から、美術品が出土することがある。
美術、芸術は、つまり、古来からあったということだ。
生活が今ほど豊かではなかった時代に、衣食住とはかけ離れた美術があったのだ。
美術、芸術は、人間の本能的な部分に直結する何かを持っているのだと思う。
王族、貴族の墳墓だけではなく、簡単な装飾品が見つかるのだから、間違いない。
出土した土器を見て、故岡本太郎氏が驚いたのも有名な話だ。
武士が持った刀だって、ただ斬るものではなくて、拵えがある。
常に生活と美術、芸術はリンクしてきたという事なのだろう。
何百年も経ってから、駅前のモニュメントが掘り出されたらどんなふうに言われるのだろう?
ひょっとしたら、イースター島のモアイ像のように、世界の七不思議になるかもしれないね。
残るというのはそういうことだ。
誰かが、それを見て、何かを思う。
それは、想定などできない何かだ。
おいらみたいなあんちゃんが。
ふらりと展覧会に現れて、作品を観る。
彫刻家の方々は、どう思うのだろう?
ぽけっと何かを考えている姿を見て、何を感じるだろう。
今日、展覧会に行くのも街に出るのも、さして、意味はないかもしれない。
実際に何かのプラスになるために行くわけではない。
それでも、こういうことが大事なんじゃないかって、どこかで思っている。