開花宣言から一週ぐらい経つのにまだ二分咲きぐらいだ。
今日は暖かかったから、明日には五分咲きになるかな?
満開になれば散るのは早い。
今日のような好天が続くなら、今週末がお花見のピークだろうか。
打ち合わせの資料は大体揃った。
データであとは、メール添付すればいいかな?
なんか、追加することを思いついたらいけないから、送信は後にしようと思っていたんだけど。
おいらも打ち合わせに行くことになった。
出力用のデータじゃなかったから、ちょいと調整をしてから今日明日でプリントアウトして持っていけるようにしよう。
そうしよう。
まぁ、そんな大した資料でもないのだけれども。
なんというか、物事には裏付けというものが必要だと思う。
いや、本当は必要ないのだけれども、裏付けがあるとないとでは説得力が違う。
漫然と話すだけじゃなくて、こことここは確認しようとか。
ここが疑問とか自分なりにまとめておけば、材料になる。
家で考えてからだから、充分な裏付けも出来るだろう。
結局、何をしていても変わらないのかもしれないけれど、役者にとっても裏付けがとても大事だ。
シンプルに自分がこれまでどんな芝居を重ねてきたか、どんな稽古を重ねてきたか。
それが、経歴という裏付けになる。
自分は役者であるという根拠ってなんだろう?って考えるんだけれど。
それはもう自分が今までやってきたこと全てが今は勝手に説明してくれる。
世間様の中では、劇団とか小劇場とか、役者って思っていない人もいるみたいだけどさ。
まぁ、そりゃ、知らないんだからしょうがない。
もちろん演技でも裏付けは必要だ。
台本のト書きに(笑いながら)と書いてあれば、役者は笑いながら芝居をする。
とは言え、書いてあったから笑うでは、段取りになってしまう。
なぜそこで笑ったのか、どういう意味で笑うのか、どう笑ってるように見せるのか。
全ての裏付けを自分の中で構築していくのが、いわゆる役者の作業だ。
意味もなく笑っていると、その芝居には違和感しか残らない。
違和感は意識的に植えつければ大きな武器だけど、勝手に出てしまえば意味がなくなる。
こだわる役者は、演出家に、なんでここでこっちに行くんですか?とか聞く。
自分の中で作ってきた芝居で、そっちには絶対に行かないと思った時だ。
でも、それは間違っている。
なんでそっちに行くのかは、役者が自分で自由に裏付けを創るチャンスだからだ。
わかりました!行きます!と言ってから、さて、どうやって行くかな?で良い。
それでも答えが出ない時は、なんか、自分の中で処理できないんだと伝えればいい。
そこでヒントぐらいはもらえるかもしれない。
だから、癖や手持無沙汰ってだけで動いちゃうと裏付けのない演技になってしまう。
今週もそういえばデビッドさんが「なんでここで笑ったかわからない」とポロリと言ったけど。
そういうところを自分なりに分析していかないといかんなぁと思う。
そこまで用意しても。
絶対に本能的なものが出る。
アニマル的な反応、リアクションが自分の内側から出る。
それはいつも新鮮な驚きとして自覚する。
ああ、こんなことが自分の中から出てきた!と。
そして、それがいつもとても楽しみだ。
こと映画というフィールドだけで観れば、裏付けは余りない。
全然ないわけではないけれど、映画畑の人からみれば赤子も同然だ。
だから、もうそこは学ぶだけだ。
学んで、自分の裏付けにしていく。
その繰り返しになっていくんだろう。
打ち合わせでは、横で聞いている時間が殆どだと思うけれど。
それもまた学ぶことになる。
今思えば「オクリビ」を監督したことがすごく経験になっている。
それまで知らなかったことを独学だけど、どんどん吸収した。
タイムキーパーも自分でやったり、絵コンテも全シーン書いた。
あれがなければ、何が何だかわからないことだらけだった。
そう考えると、やっぱり、経験は裏付けになるってことだ。
あのショートフィルム企画ではデビさんの助手もやった。
とどまることを知らない。
色々なことをもっと知りたいという欲求。
もっともっと先に進みたいという欲求。
桜吹雪の下を何度通り過ぎただろう?
あれは、入学式だったか、それとも卒業式だったか?
時々、卒業した途端に社会人になったような顔をする奴もいるけどさ。
おいらには、卒業と入学は同じ意味だ。
何かを卒業するという事は、何かを学び始めるという事。
一つ大きな裏付けを手にするたびに、新しいことを始めることを繰り返してきた。
そして裏付けが自分の存在を証明していく。
明日は五分咲きかな?
新たな門出には、丁度いいさ。
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